て徐々《そろそろ》と前へ歩んで行くから、高部もいささか張合いが抜けて業《ごう》が煮え、
「生国《しょうごく》と姓名を名乗らっしゃい」
 高部はまたも竜之助の肩をこづ[#「こづ」に傍点]き立てましたから、竜之助が、
「生国は下総国、猿島郡《さしまごおり》」
と何のつもりか出鱈目《でたらめ》のところを述べると、この時まで、後見役気取りで、あとについて来た三人のうちの仏頂寺が、急に二人の横を摺《す》り抜けて前へ出てしまいましたから、高部はちょっ[#「ちょっ」に傍点]とその挙動を怪しみました。しかし、もともと仲間のことですから、怪しんだのみで危《あや》ぶんだわけではありません。
 そうすると、徐《おもむ》ろに歩んでいた竜之助が、ふいに足をとどめたものですから、押並んで歩んでいた高部も足をとどめないわけにはゆきません。その間《かん》の空気が、なんだかちょっ[#「ちょっ」に傍点]と変でしたから、後ろにいた三谷と丸山も妙な面《かお》をして立ち止まりました。
 この時、高部は前よりグッと手荒く、竜之助の肩をつかみ、極めて意地悪く小突き廻すと、その時、竜之助の癇《かん》がピリリと響き、
「ちぇィッ」
 無慈悲にその肩を左に開くと、侮《あなど》りきっていた高部がよろめいた途端を、左の手で突放《つっぱな》したと見る間に、
「あっ!」
と言って、頬を抑えて無二無三に後ろへ飛び退《すさ》ったのは高部で、ほとんど五間ばかり一息に後ろへ飛びさがって、そこで仰向けに倒れて、
「あつ、つ、つ、つ、つ」
と左の手で自分の頬をおさえると、その指の間から血が滝のように溢れ出します。それでも、右の手には早くも脇差を抜いて、仰向けに倒れながら、それを構えたが、みるみる、面《かお》の全部が溢れ出す血潮で塗りつぶされ、余れるものは指の間から筋を引いて下へ落ちます。
 竜之助は、抜討ちに高部の横面《よこめん》を斬りました。それでも、幸いにして、その横面は、頭蓋骨を二つに殺《そ》いでしまわないで、左のこめかみ[#「こめかみ」に傍点]から三日月形に、頬を伝い、骨を残して肉だけを斬って、上唇まで裂いてしまいました。高部が飛び退《しさ》ってその傷を手で押えた時に、はじめて血が迸《ほとばし》ったものですから、その瞬間に見た傷口は、なんのことはない、口が左へ耳の上まで裂けあがったのと同じことです。しかし、それも瞬間のことで、そ
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