易《たやす》く後ろを見せない者共でありながら、楯に取るのは義理名分でもなく、勇侠義烈でもなく、つまるところは酒と女。今もここに網を張って、病人と足弱の一行を待ち構えているようなものですが、相手次第で、どう変化するかわかったものではありません。
 その日の天気模様は朝から曇っていたものですから、肝腎の峠の上から諏訪湖をへだてた富士の姿が見えず、あたら絶景の半ばを損じたもののようで、ことに寒気が思いのほか強く、風こそないけれども、海抜一千メートルのここは、今にも雪を催してくるかとばかりです。
 そこへまもなく、峠路を上って来た竜之助の一行。道中の不文律に従って、ともかくもこの立場《たてば》へ一休みはするだろうと期待していると、案外にもそのまま挨拶もなく(挨拶すべき義務もなく)この前を素通りして先をいそがせましたから、四人のものが拍子抜けの体《てい》です。仏頂寺弥助の如きは、盃を宙にして、口をあいて、掌《て》の中の珠《たま》を取られたような形でいましたが、さりとて、上って来たその人は河合又五郎でもなければ、阿部四郎五郎でもないから、立ち塞がるわけにもゆかず、呼びとめる縁故もありません。
 やむなく、相当の時間と茶代とを置いて、この立場を出立しました。四人はいい合わさねど忌々《いまいま》しい面《かお》をしている。

 峠の上の立場《たてば》――五条源治を素通りした竜之助の一行は、やがて、いのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原の一軒家へかかろうとする時分に、後ろから、
「おおい」
と呼ぶ声。
 その声を聞くと駕籠《かご》の中のお雪が、まず恐怖に打たれました。
「おおい」
 二度《ふたたび》呼ぶ声。久助は聞かないふり[#「ふり」に傍点]をしていると、堪りかねたお雪が、
「久助さん、おおい、おおいって、呼んでいるのは、あのさむらい[#「さむらい」に傍点]たちじゃありませんか」
「そうかも知れねえ」
「なんだか、気味の悪い人たちですね、麓《ふもと》でも、わたしの駕籠をジロリジロリと見ていました、いそぎましょう」
「急ぎましょう」
 急ぐといって、ここは下りに向った塩尻峠ではあるが、見通しの利《き》く野原の一筋路。
 もし隠れるとすれば、いのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原の真中に、屋根に拳石《けんせき》を置いて、中で草鞋《わらじ》を売る一軒家があるばかりです。
「おおい」
と三たび呼ぶ声。こ
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