河は残るという懐《おも》いが、詩人ならぬ人をまでも、詩境に誘い易いのであります。
こういう弱い心を鞭打つには、こういう静かなところへ来てはいけない、と兵馬は、陣街道を真直ぐに、またも府中の宿へ足を向けました。
十三
兵馬はそこを引返して、車返《くるまがえし》から甲州街道筋へ出て、再び宮前まで来た時、おそろしく急ぎの乗物が一挺、西の方から飛んで来るのにでっくわせました。
もとよりここは、甲州街道の道筋では、一二を争う宿駅の一つ。まだ宵の口、幾多の人馬が往来することに、敢《あえ》て不思議はありませんが、この乗物は、物々しい人数に囲まれ、乗物を囲んで急ぐ三四の人影が、皆さむらい[#「さむらい」に傍点]であることが奇怪。そうして先手《さきて》を払った一人は、これはさむらい[#「さむらい」に傍点]体《てい》ではないのが、棒を携えて、これが一行の差図ぶりで飛んで来たものだから、兵馬はどうしても、見逃すわけにはゆきません。で、眼前を過ぐる乗物に近寄ると、
「危ない」
棒を持ったのが、それを制止しようとした途端のことです、
「やあ」
これは、どちらが先に言ったのか、
「君は……」
棒を持ったのが踏み留まると、同時に乗物も、これを擁護した物々しい一行も、たじろいでしまいました。
「君は、宇津木兵馬ではないか」
「おお、山崎!」
そこで、おたがいが、やや離れて棒のように突立ったものです。
乗物を守った数名のさむらい[#「さむらい」に傍点]たちが、早くも血気を含む。
「宇津木、君は今頃、こんなところに何をしているのだ」
乗物の先を払って来たその人は、まさしく山崎譲でありました。
「山崎氏、君こそどこへ行かれるのだ、そうしてその乗物は?」
兵馬は反問しました。その時は、充分に足場をみはからっていたものらしい。
「どこへ行こうとも君の知ったことではないが、僕の方から、君には充分に聞いておきたいことがあるのだ、いいところで逢った」
といって山崎は、乗物と、それを守る人々を見廻して、
「君たち、拙者はこの少年にぜひ聞いておきたいことがあるのだが……」
それから六所明神の鳥居の中に眼をつけ、
「暫く、あれで待っていてくれ給え」
山崎の差図通りに、乗物は、鳥居から明神の境内《けいだい》に舁《かつ》ぎ込まれて、鳥居の背後に置かれると、それを擁護しながら、一方には事のなりゆきを注視して、彼等はすわ[#「すわ」に傍点]といわば山崎に加勢する身構え気込み充分です。
しかし、山崎は甚だ騒がぬ体《てい》で、
「宇津木」
と言葉をかけて、一足近寄って来ました。
「宇津木、君は何か非常に心得違いをしているらしい、ナゼ君は拙者を殺そうとしているのだか、その理由が一向にわからんので、僕は迷っている。考えても見給え、君と拙者とは、壬生の新撰組で同じ釜の飯を食った仲ではないか、それ以来、拙者は何か君に怨まれることをしたのかな」
こういわれてみると、兵馬は返すべき言葉がないので、ぜひなく、
「私の怨みではない……」
といいますと、すかさず山崎は、
「私の怨みでなければ何だ」
兵馬は、この場合、たしかにやや逆上していました。
「ある人に頼まれたのだ」
「人に頼まれた? ばかな!」
山崎は、カラカラと笑うと、いっそう激昂した兵馬は、
「山崎氏、君にはなんらの怨みとてはないが、君が邪魔をするために、国家の大事を誤るといって慨《なげ》いている人がある、その人のために君を遠ざけねばならぬ。拙者はその人のために助けられている、その人は拙者の命の親である、余儀なき頼みを引受けて君を遠ざけようとするのも、一つには恩に酬《むく》ゆるため、一つには君等が邪魔をするために、国家の大事を誤ると慨いている――それが気の毒で、頼みを引受けたまでじゃ」
「まあ、待て、待て。君を頼んだというその人も、こっちではちゃん[#「ちゃん」に傍点]と見当がついている、その人たちがほんとうに国家を憂いている人か、あるいは乱を好む一種の野心家に過ぎないか、君にはそれがわかっているのか」
「わかっている」
「わかっている? では、あの連中が本当の憂国者か」
「少なくとも、君等の見ているよりは、広く今の時勢を見ていることだけは確かだ」
「宇津木、君はいやしくもいったん新撰組に籍を置いた人として、この山崎譲の前で本心からそれをいうのか」
「無論のこと」
「そうなると、君は我々同志に縁のあるものを、残らず敵とするのだが、それでいいか。拙者だからいいようなものの、他の同志の中で、その一言を吐けば、君はその場で乱刀の下に、血祭りに上げられることを知っているだろうな」
「拙者は、壬生《みぶ》の屯所の世話になったことがあるけれど、新撰組に同志の誓いを立てたものではない。その新撰組とても、幾つに
前へ
次へ
全85ページ中21ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング