を、気休めとして聞くほどに自分を知っている。
「ですから友さん、わたしはお前によく話をしたり、頼んだりしておきたいと思っているの……」
「うむ」
「友さん、お前はわたしを憎んでいるばかりでなく、駒井の殿様をもいつまでも憎んでおいでなのが、わたしは残念でたまらない」
「それは昔のことだ、今じゃあそんなことまで考えちゃあいねえよ」
「嘘です、友さんは憎みはじめたら、良い人でも、悪い人でも、終いまで憎んでしまうのですから、わたしは悲しい。ですけれども今はそんな話はよしましょう、間《あい》の山《やま》にいた時のお友達の昔に返って、友さんにわたしはお頼みしておきたいことがあるのよ……」
お君は、やっとこれだけのことをいうと、すっかり疲れてしまって、咽喉《のど》もかわくし、唇の色まで変っています。
「お君さん、お薬を上げましょうか」
「どうも済みません」
お松の手で咽喉をしめしてもらったお君は、再び言葉をつぐ元気がないと見えて、目をつぶったままで微かに呼吸《いき》を引いています。
二人も、その安静を妨げない方がよいと思って、黙って、お君の寝顔をながめているだけです。
「友さん……」
暫くして呼んだお君の声は、夢の中から出たようで、その眼は開いているのではありません。
「お君さん……」
と米友の代りにお松が返事をしたけれど、お君の呼んだのは囈言《うわごと》でありました。
二人は、なおその寝顔をじっと見ていると、お君の額にありありと、苦痛の色が現われて、
「あ!」
「お君さん」
お松がその背中へ手を当てると、
「皆さん、ムクを大切《だいじ》にして下さい、お松様、あのことをお頼み致しますよ」
「何をいっていらっしゃるの、お君さん、しっかりしなくてはいけません」
「友さん……それでは、わたしを間の山へ連れて行って下さい……駒井の殿様へよろしく申し上げて、さあいっしょに帰りましょう……鳥は古巣へ帰れども、往きて還らぬ死出の旅……」
この時、お君の面《おもて》からサッと人間の生色が流れ去って、蝋のような冷たいものが、そのあとを埋めてしまいました。
「誰か来て下さい……」
お松が叫んだ時、抱えていたお君の頭が、重くお松の胸に落ちかかります。
「死、死んだのかい!」
宇治山田の米友が、矢庭《やにわ》に飛び上ったのもそれと同時刻。
かわいそうに、お君は死んでしまいました。
まもなく、この邸の裏門から驀然《まっしぐら》に走り出だした宇治山田の米友は、相生町を真一文字に、両国橋の袂《たもと》まで飛んで来て、
「これこれ、どこへ行く」
橋際の辻番の六尺棒で行手を支えられた時、
「間の山へ行くんだ」
「何だ……」
「間の山……じゃなかった、小石川へ帰るんだ」
「小石川のどこへ」
「この提灯《ちょうちん》を見ねえな」
突き出してみたけれども、あいにくのことに、その提灯に火が入っていません。
「ちぇッ」
杖槍と、提灯とを、ひっかかえて来たけれども、この提灯へ火を入れることを忘れていた。
「どこから来た」
辻番は穏かならぬ面色《かおいろ》で咎《とが》めると、米友は舌打ちをしながら、
「相生町の御老女の屋敷から来て、小石川の伝通院の学寮へ帰るんだ、火を貸しておくんなさい」
米友は火の入っていない提灯を、辻番所まで持ち込むと、
「それ」
ちょっと億劫《おっくう》がった辻番が、投げ出すように火打道具を貸してくれる。
「カチカチ」
「ちぇッ」
「カチカチ」
燧《ひうち》を打つ手先が戦《わなな》いて、ほくち[#「ほくち」に傍点]を取落してはひろい上げ、ようやく附木にうつすとパッと消える。
「ちぇッ」
焦《じ》れ立った米友の挙動を見ていた辻番が、
「それでは燧金《ひうちがね》がさかさだ」
「ええいッ」
やっとのことで火は提灯へ入ったが、手先が、やはりわなわなとふるえている。
「なるほど」
辻番は提灯に現われた「伝通院学寮」の文字をありありと読んで、やや得心が行ったように、
「何を慌《あわ》てているのだ」
米友の挙動には、不審が晴れない。
「何でもねえんだ、どうも有難う」
そうして走り出すと、
「おい、待たっしゃい」
呼び留めた辻番、振返った米友。
「何か包を落したぞ」
「うむ、そうだ」
辻番が拾ってくれた帛紗《ふくさ》づつみを、手早く受取って懐ろへ捻《ね》じ込む。
「気をつけて歩かっしゃい」
辻番も、米友の挙動を合点《がてん》ゆかないとは思ったが、出て来たところが老女の屋敷で、行先が伝通院ということに諒解を持ったものと見えて、跡を見送っただけである。一目散に両国橋の上を走り渡った宇治山田の米友が、
「往きて還らぬ死出の旅」
そこで、ピッタリと足をとどめて、
「さあ、わからなくなった、前と後ろがわからなくなっちまった、右と左もわ
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