の奥であろうとは想像するのです。
 ふと、その空気の圧迫と、怪しい鳥の落ちて来る鳴き声に、過ぎにし武州御岳山の霧《きり》の御坂《みさか》の夜のことが、彼の念頭を鉛のように抑えて来ました。宇津木文之丞を木剣の一撃に打ち斃《たお》したその夜、同門の人にやみうちを受けた霧の御坂の一夜、その夜、山の秘鳥、御祈祷鳥《ごきとうどり》が、降りかかるようにわが身辺に鳴いていた中を、彼は熱さに燃ゆるお浜の胸を抱いて、闇を走ったのではないか。
 お浜はいずれにある。恨みに生きて恨みに死んだ、かの憎むべき女の遊魂は、いずれにさまよう。
 人間の罪、今も心なき駕籠舁の口から出たその人間の罪は、男女いずれに帰すべきやを知らない。その起るところのいつであるか知らないように、その終るところのいずこであるやを知らない。ただ知っているのは、罪は畢竟《ひっきょう》ずるに、罪以上のものを産まないということ。
 それは仮りに罪といってみるまでのことで、竜之助自身にあっては、世のいわゆる罪ということが、多くは冷笑の種に過ぎないことです。彼は自分の生涯を恵まれたる生涯だとは思っていないが、また決して罪悪の生涯だとは信じていないのです。彼自身においては、自分が生きるように生きているのみで、未だ曾《かつ》て企《たくら》んで人を陥れようとしたことがない。わが生きる前途にふさがるものは容赦なく、これを犠牲にして来たつもりだが、わが存在を衒《てら》うために一筋でも、他を犯したことはないつもりである。夜な夜な出でて人を斬ったことですらが、彼は渇して水を求むるのと同じことで、自己の生存上のやむにやまれぬ衝動に動かされたのだという、盲目的の信念に生きているのであった。国と国が争う時には、幾万の人の命が犠牲になるではないか……自然が威力を逞《たくまし》うした時、おびただしい人畜を殺すこともあるではないか。誰が国と自然との罪を責める?
 悪いことをしていない、という盲目的信念は、今までこの男をして、世の罪ある者の方へ、罪ある者の方へと縁を結ばしめて来た。愛すべきものは罪である。ことに愛すべきは罪を犯して来た女である。今まで彼を愛し、彼に愛せられた女性は皆、この罪ある女ではなかったか。愛でも恋でもない、それは罪と罪とのからみ合う戯れではないか。ただし戯れにしては、その悶《もだ》えがあまりに重くして深いことの怨みがある。
 道はいつしか、老杉の境を出でて樺木科《かばのきか》の密林をよぎると、そこから、すすき尾花の大見晴らしの頭が現われます。
「すっかり晴れちまったね。いいお月見ですよ、旦那様」
 駕籠屋がいい心持で天を仰いで、雨あがりの雲間の冴《さ》えた月をながめて、その気分をいささかながら駕中《がちゅう》の人に伝えようとする好意で、
「ここのお月見は格別ですね、何しろ十二カ国が一目で見渡せるんですからね」
 駕籠は、すすき尾花の大見晴らしを徐々《しずしず》と押分けて進むと、五十丁峠のやや下りになります。少しく下ってまた蜿蜒《えんえん》として、すすき尾花の中に見えつ隠れつ峰づたいに行く道が、すなわち小仏の五十丁峠。もし昼間にこれを通るならば、身の丈を蔽《おお》いかくすほどの、すすき尾花の路のつい足もとから、バタバタと雉子《きじ》や山鳥が飛び出して、幾度か旅人を驚かすのですが、夜はすべての鳥が、その巣に帰っていると見えて、悠長な駕籠屋を驚かすほどの物音もなく、五十丁峠を七八丁ほど来て、また小高い峰の頂にかかった時、
「向うのあの松林の中で、変な火の色が見えたぜ」
「え、松林の中で?」
 二人の駕籠屋はいい合わせたように、大だるみ[#「だるみ」に傍点]の方面へ走った峰つづきの松原の方を眺めました。
「なるほど」
「何だろう、あの火は」
「提灯でもなし」
「焚火でもなし」
 駕籠の中で、それを聞いていた竜之助は、むらむらと昨夜《ゆうべ》の夢を思い起しました。その松林には、はるばると甲州の白根の奥から来た肉づきの豊かな年増《としま》の山の娘がいて、その火は、温かい酒と松茸《まつたけ》を蒸しているのではないか。
「こっちへ来るようでもあるし、あっちへ行くようでもあるし」
「いやな色をした火だなあ」
 駕籠《かご》の歩みが、こころもち遅くなったのは、すすき尾花の丈がようやく高くなって、歩みわずらうせいでしょう。
「だけんど、おれはこの道でおっかねえと思ったのは、たった一ぺんきりさ」
と前棒《さきぼう》の若いのが、おじけがついて、強がりをいってみたくでもなったもののようです。
「そりゃあ、どうしてだ」
「高尾の山には天狗様がいるという話だが、おれは、三年ばかり前の晩景《ばんげ》、この通りでその天狗様にでっくわしてしまった。なあに、鼻も高くはないし、羽団扇《はうちわ》もなにも持っちゃいなかったし、あたりまえの
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