、わたしを可愛がる人はこの世にありません」
「けれども、お嬢様、あの方は悪人ですよ、あの方の傍にいると、いつか、あなたも殺されてしまうことを、お忘れになってはいけません」
「いいえ、あの方は、決してわたしを殺しはしません……わたしを殺さないだけではなく、わたしが傍にいれば、あの方はほかの人を殺さなくなるのです。わたしとあの人とは、しっくりと合います、わたしの醜いところが全く見えないで、わたしの良いところだけが、この肉体《からだ》も心も、みんなあの人のものになってしまうのですから。わたしは、天にも地にも、あの人よりほかには可愛がってくれる人もなければ、可愛がって上げる人もないのです……後生《ごしょう》ですから、あの人に会わせて下さい、いくらお金がかかってもかまいませんから、あの人の行方を探してみて下さい」
この女はお銀様――甲州有野村の富豪藤原家の一人娘。花のような面《かお》を、鬼のように焼き毀《こぼ》たれてから、呪《のろ》われた肉体《からだ》に、呪われた心が宿ったのはぜひもありません。スラリとした娘盛りの姿に、寝るから起きるまでお高祖頭巾の裡《うち》につつまれた秘密、それに触るるものは呪われ、これに触れずしてその心だけを取るもののみが、溶鉱のように溶けた熱い肉に抱かれる。
お角はお銀様だけがどうも苦手《にがて》です。この人に向うとなんだか圧《お》され気味でいけない。なんという負い目があるわけではないが、この人には、先《せん》を制されてしまいます。そこで申しわけをするように、
「よろしうございます、そういうことを頼むには慣れた人を知っていますから、近いうちに、キッとお嬢様のお望みの叶うようにして上げましょう」
「どうぞ、お頼み申します」
といってお銀様は、お辞儀をして立って行きました。
二階へ上って行く後形《うしろすがた》を見ると、スラリとしていい姿です。品といい、物いいといい、立派な大家のお嬢様として通るのを、あのお高祖頭巾の中の秘密が、めちゃくちゃ[#「めちゃくちゃ」に傍点]に、一つの人生を塗りつぶしてしまうかと思うと、さすがに不憫《ふびん》ですが、鉛色に黒く焼けただれた顔面の中には、白味の勝った、いつも睨《にら》むような眼差《まなざ》し。お角でさえも、その眼で見られた時は、ゾッとして面《おもて》を外《そ》らさないことはありません。
お銀様が二階へ上ってしまうと、ホッと息をついたお角は、急に何かの重し[#「重し」に傍点]から取られたような気持になってみると、今の不憫さが、腹立たしいような、嫉《ねた》ましいような気持に変ってゆきます。巣鴨の化物屋敷の土蔵の二階で、あの人と机竜之助とが、うんき[#「うんき」に傍点]の中で、夜も昼も水綿《みずわた》のように暮らしていた時のことを思うと、お角は憎らしい心持になって、よくも図々しく、人にあんなことが頼まれたものだと、やけ[#「やけ」に傍点]気味で煙管を取り上げると、その時、表の格子戸がガラリとあいて、
「こんにちは、御免下さいまし」
「おや、誰だい」
「按摩《あんま》でございます」
「按摩さんかえ、さあお上り」
「どうもお待遠さまでございました、毎度|御贔屓《ごひいき》に有難うございます」
按摩は、こくめい[#「こくめい」に傍点]に下駄へ杖を通して上へあがって来ると、お角はクルリと向きをかえて、肩腰を揉《も》ませにかかる。
「なんだか雨もよいでございますね」
「降るといいんだがね」
「左様でございますよ」
按摩は臂《ひじ》でお角の肩をグリグリさせながら、お天気のお世辞をいっているとお角は、その腕の逞《たくま》しいところを見て、
「按摩さん、お前は幾つだえ」
「え、私の年でございますか、まだ若うございますよ」
「若いのは知れているが、幾つにおなりだえ」
「エエ、十三七ツでございます」
「ちょうど?」
「左様でございます」
「おかみさんはありますか、それともまだ一人ですか」
「へへえ……」
「なんだね、その返事は。あるのですか、ないのですか」
「あるのですよ、一人ありますのですよ」
「一人ありゃたくさんじゃないか」
「おかげさまでどうも……相済みません」
「おかみさんがあったって、済まないことはないじゃないか」
「なかなか親切にしてくれますから、それで私も助かります」
「おやおや。そうして何かえ、そのおかみさんは容貌《きりょう》よしかね」
「へえ、容貌《きりょう》のところは私にはわかりませんが、皆さんが、私には過ぎ者だとおっしゃって下さいます」
「やりきれないね」
「ところが、ごしんさま、容貌がよくて、気立ての親切な申し分のない女が、私共みたような不具者《かたわもの》のところへ来てくれるからには、どのみち、ただ者じゃありますまい」
「前はどうだっていいじゃないか、今さえよければ
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