買い取ろうとする色好みの老人の手から、本当に愛し合っている人の手に取り戻すことができる。自分の本望、女の喜び、それを想像すると、兵馬はたまらない嬉しさにうっとりとする。
 うっとりとして、自分の足も六所明神の社内を、冷たく歩いているのではなく、魂は宙を飛んで、温かい閨《ねや》の燃えるような夜具の中に、くるくる[#「くるくる」に傍点]と包まれてゆく心持になってゆく時、ヒヤリとして胸を衝《つ》いたものは、
「あなたの心を、お松の方に向けていただきたいのです、そうしませんと、あの子はいちばんかわいそうなものになってしまいます」
といまいい残して行った七兵衛の一言《ひとこと》がそれです。

         十四

 狭山《さやま》の岡というのは、武蔵野の粂村《くめむら》あたりから起って、西の方、箱根ヶ崎で終る三里ほどの連岡《れんこう》であります。武蔵野の真中に、土の持ち上っただけのもので、その高さ二百歩以上のところはなく、秩父《ちちぶ》から系統を引いているわけではなく、筑波根《つくばね》の根を引いているわけでもなく、いわば武蔵野の逃水《にげみず》同様に、なんの意味もなくむくれ[#「むくれ」に傍点]上って、なんの表現もなく寝ているところに、狭山連岡の面白味があるのです。
 狭山の尽くるところに、狭山の池があります。その中に小さな島があって、ささやかな弁天の祠《ほこら》がまつられてある。府中の六所明神の社頭で兵馬と別れた七兵衛が、ひとり、こっそり[#「こっそり」に傍点]とこの弁天の祠に詣でたのは、その翌日の真昼時であります。
 七兵衛は弁天様にちょっと[#「ちょっと」に傍点]御挨拶をしてから、その縁の下を覗《のぞ》き込んで手を入れて探すと、蜘蛛《くも》の巣の中から引き出したのが、一挺の小鍬《こぐわ》であります。この鍬を片手に提げると、池のまわりを一ぺん通り、西の方へまわって、松の大樹の落々《らくらく》たる間へ進んで行きました。この辺、数里にわたって、見渡す限りの武蔵野であります。
 七兵衛は池尻の松の大樹の林の中を鍬を提げて歩いて行き、一幹《ひともと》の木ぶり面白い老樹の下に立って、いきなり鍬を芝生の上へ投げ出すと、その松の根方に腰をおろしました。
 そこで煙草入を取り出して、燧《ひうち》を切って一ぷく吸いつけると、松風の響きが鼓《つづみ》のように頭上に鳴り渡ります。七兵衛は
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