家《やまが》にしては大きなお寺がございます、あのお寺には、わたくしの妹がおりますから、あれへおいでになって、暫く御養生をなさいませ」
扉の外に立った女は欄干につかまって、扉の中へこれだけのことを小声で申し入れました。中へは入ろうとしないで、外でこれだけの用向をいって、中なる人の返事を待っている間に、提灯《ちょうちん》の中を上からながめているその面《おもて》が、やや盛りを過ぎてはいるけれども、情味のゆたかな女で、着物もこのあたりの人とはいえないまでに、柄のうつりのよいのを着ているのが、提灯の光ですっきりと見えるのであります。これぞ、巣鴨庚申塚のほとりで、不義の制裁を受けて殺されようとした女に紛れもないのです。たしか、この女の郷里は、ここから程遠からぬ小名路《こなじ》の宿《しゅく》の、旅籠屋《はたごや》の花屋の娘分として育てられた女であります。覗《のぞ》いている提灯にも、花という字が大きく書いてあるのでわかります。
あれから後、夢のような縁に引かされて、この蛇滝に籠《こも》ることになってほぼ百箇日、その間の保護は、この女から受けていたと見るよりほかはありません。
今、この女は江戸へ行くとのことです。江戸へ行かねばならぬその理由は、よそへ預けておいた行方不明《ゆくえふめい》の子供の行方がわかったから、それを取り戻しに行くのだと言っています。あの近所へ近寄れない怖れと弱味とを持っておりながら、やはり子供の愛には引かされて行くものらしい。
「子供というのは、それほど可愛いものかなあ」
扉の中で竜之助の声。
「可愛ゆうござんすとも、子供ほど可愛ゆいものは……」
提灯の中を見入っていた女が面を上げた時に、その身体《からだ》が欄干からするすると巻き上げられて、蛇にのまれたように、扉の中へすいこまれてしまいました。
二
参籠堂の中で、焚火が明るくなった時分に、机竜之助は、いつのまにか着物をきがえて旅の装いをすまし、頭巾《ずきん》をかぶって、その火にあたっておりました。
それと向い合って、女は後《おく》れ毛《げ》をかき上げて、恥かしそうに横を向いていましたが、
「長房《ながふさ》というのへ出て小仏へかかるのが順でございますけれども、駕籠屋さんが慣れていますから、高尾の裏山を突切ると言いました、五十丁峠の道をわけて、山道づたいに上野原へ出た方が、道は難
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