《かが》めて地上に落ちた刀を拾い取ろうとすると、その刀がひとりでにスルスルと動き出しました。
 刀がひとりでに動き出して堤《どて》の上へのぼると、堤の上から、その刀を携えて下りて来たものがありました。
「武士たるものの魂を足蹴《あしげ》にするとは何事だ」
「ナニ?」
 そこで、米友は一間ばかり飛びしさりました。
「武士たるものの魂を足蹴にするとは何事だ」
 ははあ、例によって辻斬だな、但し、こいつは少々|駈引《かけひき》があると米友がその時に思いましたのは、ほんとうに斬る気ならば前触《まえぶれ》はないはずである、ところが刀を往来中《おうらいなか》へころがして置いて、文句をつけに出るのだから、飲代《のみしろ》でも稼ごうという代物であって、必ずしも斬ろうというのが目的ではない、とは感づきましたけれども、ともかく、これだけの仕掛をするほどの図々しい奴だから、でようによれば斬るだけの腕を持っている奴である。
 で、一間ばかり飛びしさった米友は、提灯《ちょうちん》をかざして、その下りて来た武士たるものの様子を篤《とく》とながめました。
 こちらがながめるより先に、先方は敵の提灯で、敵の内兜《うちかぶと》を見定めたと覚しく、
「こいつは少し当《あて》が外れた!」
 やがてカラカラと大きな声で笑い出したのは、何か相当の獲物《えもの》を期待していたのに、ひっかかったのが一匹の雑魚《ざこ》に過ぎないと見たからでしょう。なるほど、夜目遠目で一見したところでは、米友は雑魚のようなものです。
「いいから通れ、通れ」
 武士たるものは米友に向って、鷹揚《おうよう》に木戸を通そうとするが、お情けで網の目からおっぽり出されて、それを有難がる米友ではありません。
「お前に許しを受けなくったって通らあな、天下様の往来だ……」
 天下様の往来とはいいながら、この場合において、この男は大手を振って通るわけにはゆきません。提灯を左に持って、杖槍を右にかい込んで、その円い目を、武士たるものの身のまわりへピタリとつけて、やや遠くから廻り込むようにして過ぎようとするのを、武士たるものはじっと立ってながめている。
「待たっしゃい」
 米友が、ようやく半円形に通り過ぎた時分に、立っていた武士たるものが、また言葉をかけました。
「何だい」
 米友は怒気を含んで答えます。
「見受くるところ、貴様は取るに足らぬ下郎ゆえ、
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