が持って来たんですが、待ち切れないと見えて、御当人が、わざわざおいでになりましたよ」
「うん」
といって米友は、周囲の雲行きに頓着なく、その場で封を切って読んでみると、
[#ここから1字下げ]
「米友さん、あなたのいらっしゃる所を、今日道庵先生からお聞き申しましたから、大急ぎでこの手紙を差上げます。手紙をごらんになりましたら、すぐにおいで下さいまし、お君さんが危ないのです。ぜひ、生きている間にもう一ぺん米友さんに会いたいといっていますから、今までのことは忘れて来て上げてください。これを聞いて下さらなければ、私が一生恨みますよ」
[#ここで字下げ終わり]
 読んでしまうと米友が、暗い心になりました。伊勢の古市《ふるいち》以来、幼馴染《おさななじみ》のお君が、今、九死の境にいる。駒井能登守にだまされて、身を誤った女であるけれども、こういう場合にこういわれてみれば、さすがに米友もひとごとではない。

 再び伝通院の学寮を立ち出でた宇治山田の米友。以前と違って笠をかぶらないで、「伝通院学寮」の提灯《ちょうちん》を腰にはさみ、例の杖槍はてばなすことなく、門を出て本郷の壱岐坂《いきざか》方面へ、跛足《びっこ》を引いて歩んで行きます。
 米友としては、たとい、お君の行動に憤《いきどお》りを含むとはいえ、妊娠のことも聞いている、病気のことも聞かないではない、九死一生を訴えられてみれば、行かぬのは義において欠くるところありと考えたのでしょう……しかし、心は決して打解けているわけではありません。
 今日は、なかなか多事の日である。あれから足利の絵師田山白雲に引っぱられて人気者の中を横ぎり、奴鰻《やっこうなぎ》で一杯飲みながら――米友は飲まないけれども――その絵師の縦横の画談を聞きつつ、彼が自分を床の間に立たせて、写生を試みている熱心な態度を思い出してみると、尋常な絵師とは思われません。今こそ落魄《らくはく》はしているが、後来必ずや名を成すのは、あんな人だろうなんぞと米友は考えました。
 やがて、柳原河岸近くまで来た時分、ここは貧窮組《ひんきゅうぐみ》の騒いだところ。自分が金包を落して、それを夜鷹《よたか》のお蝶に拾ってもらったところ。そのお蝶こそ恩人である。大事な節操を、二十文三十文の金で切売りをして恥じない夜鷹の身でありながら、人の落した大金は大切に保存して、苦心を重ねて、それを落し
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