《ひと》ツ家《や》の額面。それを巽の柱の下に群がった一かたまりが熱心にうちながめて、
「あの鬼婆の憎い面《つら》を見ろ、あの出刃庖丁で女の腹を割《さ》いて、孕児《はらみご》を食い物にするところだあ、孫八」
「憎い婆!」
褐色《かちいろ》の着物に黒い帯をして、尻端折《しりはしょ》りをし、出刃をかざした形相《ぎょうそう》ものすごい老婆の姿に、憎しみの眼を投げると共に、その腰にすがっている振袖を着た可憐な乙女に、痛々しい同情の眼を向けない者はない。
「あの、眼をつぶっているお稚児《ちご》さんは、ありゃ何だろう」
といったが、急にそれに返答を与えるものがありません。
つまり、女の腹を割いて、その孕児《はらみご》を見るという安達ヶ原の鬼婆は、今その携えた出刃庖丁で、あの可憐な振袖を着た乙女を、犠牲《いけにえ》の俎板《まないた》に載せようとしている瞬間と見ていると、自然その左手に気高くほおづえついて眠っている稚児髷《ちごわ》の美少年が、よけいな物になって、説明に行詰まってしまいます。それでも一同は額面そのものに堪能《たんのう》して、一心にながめていると、
「あれは安達ヶ原の鬼婆の絵ではありませんよ」
従来の説明を一挙に覆《くつがえ》したのは、宗匠頭巾《そうしょうずきん》をかぶって、十徳《じっとく》を着た背の高い老人。やや離れたところに立っておりました。
「え、あの憎らしいのが、安達ヶ原の鬼婆ではありませんのですか」
「ええ、安達ヶ原の鬼婆とは違います、よくあれを見て、間違えてお帰んなさる人がありますよ」
「へえ、そうですか、ありゃ鬼婆じゃねえのだとさ」
「そうですか」
十徳の老人は、気の毒に思って、
「あれはねえ、石の枕の故事をうつしたものなんで。昔、この界隈《かいわい》がまだ草茫々としていた時分に、この近所にあの婆さんが住んでいたものです。こっちにいるのは婆さんの一人娘なんですが、この娘が容貌《きりょう》よしだもんですから、往来の人を連れ込んで泊らせ、石の枕へ寝かしておいて、寝ついた時分に、その旅人の頭を、あの鉈《なた》で砕いて……出刃ではありません、鉈でしょう、そうして持物を奪い取ることを商売にしていたのです。娘がそれをあさましいことに思って、自分が旅人の装《なり》をして身代りに立ち、婆さんの手で殺されてしまったのです。さすがの鬼婆も、間違って自分の最愛の娘をころし
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