るさむらいの言葉を聞きました。そのさむらいは何者であるか一向わからないが、酒を飲みつつ威勢のよい話をしているうちに、薩摩ということが折々出るから、そこで何となく聞捨てにならなくなって――
「左様、なんと言っても薩摩で第一の人物は西郷吉之助だろう、西郷につづく者は……西郷につづく者は、ちょっと誰だか見当がつかない」
「西郷はエライには違いない。土佐の坂本竜馬が、西郷の度量|測《はか》るべからず、これを叩くこと大なれば、おのずから大に、これを叩くこと小なれば、おのずから小なり、と言って舌を捲いているところを見ると、かなりの人物であることがわかる。中岡慎太郎の手紙でも、この人学識あり、胆略あり、常に寡言《かげん》にして、最も思慮雄断に長じ、たまたま一言を出せば確然|人腸《じんちょう》を貫く、且つ徳高くして人を服し、しばしば艱難を経て頗《すこぶ》る事に老練と、讃《ほ》め立てているところを見ても、かなりの大豪傑であろうと思われるが、しかし、薩摩において西郷ばかりが人物ではあるまい、小松|帯刀《たてわき》や大久保一蔵は、西郷に優るとも劣ることなき豪傑だという評判じゃ」
「そりゃあ西郷以外にも豪傑がなかろうはずはない、まず殿様の斉彬《せいひん》が非凡の人物でなければ西郷を引立てることができようはずがない、知恵と手腕においては小松帯刀や大久保市蔵が西郷に優るとも、徳の一点に至っては、梯子をかけても及ぶまい、人物が大きくって徳がある、英雄|首《こうべ》をめぐらせばすなわち神仙《しんせん》である、西郷は乱世には英雄になれる、頭の振りよう一つでは聖人にも仙人にもなれるところが豪傑中の豪傑だ、おそらく、薩州だけではなく、今の日本をひっくるめて第一等の大人物だろうと考えられる」
「エラク西郷に惚れ込んだものだな。ところで、その徳というものが問題になるのだ、聖人君子の徳というものは、施《ほどこ》して求むるところなきもので、その徳天地に等しという広大無辺なものになるものだが、英雄豪傑の徳というものは、一種の人心収攬術《じんしんしゅうらんじゅつ》に過ぎんのだからな。西郷のその徳というのも要するに、薩摩一国に限られた徳で、大きいと言ったところで、たいてい底もあれば裏もあるものだから、このごろ、江戸の市中へ壮士を入れて、いたずらをさせているのも、一に西郷の方寸に出でるとのことではないか。あの男がこうして傾きかかった徳川の腹を立たせようとする策略は、なかなか腹黒いものだ。西郷にしたところで、徳川が倒れたら、そのあとを島津に継がせたかろうさ。長州は長州で、またこの次の征夷大将軍は毛利から出さねばならぬと思っているだろう。みんな相当の芝居気《しばいっけ》を持っていない奴はなかろう。しかし、このごろの薩摩屋敷が江戸の町家を荒すのは、芝居の筋書が少し乱暴すぎる」
「ありゃあ、西郷がやっているのではない、益満《ますみつ》がやっているのだ」
「益満というのはなにものだ」
「人によっては、西郷につづく薩摩での人物だと言っている。益満が采配《さいはい》を振《ふる》って、ああして江戸の市中を騒がしているのだから、まだまだ面白い芝居が見られるだろう」
立聞きをしていた忠作は、この言葉を聞いていたく興味に打たれました。それでは薩摩屋敷の荒《あば》れ者《もの》の采配を振っているのは益満という男か、その益満という男は、どんな男であろうと、忠作は益満という名を、しっかりと頭の中へ刻みつけました。
そこを出てから忠作は、薩摩屋敷のまわりを一廻りして、芝浜へ向いた用心門のところまで来かかると、ちょうど門内から、忠作よりは二つも三つも年上であろうと思われる少年が出て来ました。少年に似合わず、少しく酒気を帯びているようであります。
一目見ただけで忠作は、たしかに見覚えのある若ざむらいだと思いました。深く記憶を繰り返してみるまでもなく、目から鼻へ抜けるこの少年の頭には、甲斐の徳間入《とくまいり》の川の中で砂金をすく[#「すく」に傍点]っていた時、あの崖道から下りて来て道をたずねたのが七兵衛で、川を隔てて向うの崖道を七兵衛と共に歩いて行ったのが、今ここへ出て来た若い人であります。
「よろしい、この人のあとをつけてみよう、自分は笠をかぶって、酒屋の御用聞の風《なり》をしているのだから、勝手が悪くはない」
忠作にあとをつけられているとは知らぬ若い人。ただいま、薩州邸の用心門を立ち出でたのは別人ではない、宇津木兵馬であります。あとをつける者ありとも知らぬ宇津木兵馬は、かなりいい心持になって、
[#ここから2字下げ]
武蔵野に草はしなじな多かれど
摘む菜にすればさても少なし……
[#ここで字下げ終わり]
と口ずさみながら、芝の山内の方面へ歩いて行きます。
増上寺の松林へ入り込んだ兵馬は、その中の松の一本の下をグルグルと廻りはじめたが、刀の小柄《こづか》を抜き取りその松の木に、ビシリと突き立てて行ってしまいました。
兵馬の立去ったあとで、その松の木の傍へ寄って見て、はじめて小柄の突き立てられてあることを知り、忠作はそれを無雑作に引抜いて、松の木には目じるしの疵《きず》をつけ、またも兵馬のあとをつけて行きます。
兵馬は朴歯《ほおば》の下駄かなにかを穿《は》いている。忠作は草鞋《わらじ》の御用聞。両人ともに歩きも歩いたり、芝の三田から本所の相生町まで、一息に歩いてしまいました。
さて、相生町へ来ると兵馬が例の老女の家へ入ったのを、忠作はたしかに見届けました。
ここまで来てみると、いったい、この家は何者の住居であるかということを突き留めて帰らねばなりません。忠作は屋敷の周囲を二三度まわりました。
「こんにちは、まだ御用はございませんか」
裏口へ廻って、こんな声色《こわいろ》を使ってみると、
「三河屋の小僧さん?」
「はい」
「ちょいとここへ来て手を貸して下さいな」
「へえ、承知致しました」
呼び込まれたのを幸いに、潜《くぐ》りから長屋へ入り、
「こんにちは」
「小僧さん、後生ですからここへ来て手を貸して下さい」
薄暗い中でしきりに女の声。
「どちらでございます」
「かまわないから早く来て下さいよ」
「こちらから上ってもよろしうございますか」
「どこからでもよいから、早く来て手を貸して下さい」
流し元のあたりで頻《しき》りに呼ぶものだから、忠作は大急ぎで行って見ると、一人の女中が桝《ます》を膝の下に組みしいて、天下分け目のような騒ぎをしているところです。桝落しをこしらえて鼠を伏せるには伏せたが、どうしていいか始末に困っているところらしい。
「鼠が捕れましたね」
「小僧さん、早く、どうかして下さいな」
忠作は上手に桝を明けて鼠をギュウと捉《つか》まえて、地面へ置くと、足をあげてそれを踏み殺してしまいました。女中はホッと息をついて、
「おや、いつもの小僧さんと違いますね」
と言って忠作の面《かお》を見ました。
「どうか御贔屓《ごひいき》を願います」
忠作は頭を下げました。
そこへ、廊下を渡って、また一人の女の人が、
「お福さん」
と呼ばれて、鼠を押えた女中が、
「はい」
と答えました。
「後生ですから、これへ汲みたてのお冷水《ひや》をいっぱい頂戴」
一つの銀瓶《ぎんがめ》を手に捧げています。
「畏《かしこ》まりました、あの大井戸から汲んで参りましょう」
「済みませんね」
廊下を渡って来た女の人は、手に持っていた銀瓶を、鼠を押えていた女中に手渡しすると、鼠を押えていた女中は、それを持って水汲みに出かけたもののようです。
「毎度有難うございます」
忠作はいいかげんのことを言って立去ろうとする時に、銀瓶を捧げて来た女の人が、
「もし、小僧さん」
と呼び留めました。
「はい、御用でございますか」
「あの、お前さんは毎日ここへ来るでしょうね」
「はい、毎日伺います」
「それではね、ちょっと、わたしに頼まれて下さいな」
「へえ、よろしうございますとも、できますことならば何なりと」
忠作を見かけて、何事をか頼もうとするこの女の人は、お松でありました。
忠作は、その頼まれごとを勿怪《もっけ》の幸いと立戻ると、お松は何か用向を言おうとして忠作の顔を見て、
「小僧さん、お前のお店はどこ」
「三河屋でございます」
忠作は抜からず返答をしたつもりでいました。
お松は暫く思案していたが、やがて何を頼むのかと見れば、
「小僧さん、ついでの時でいいから、岩見銀山《いわみぎんざん》の薬を少しばかり買って来て頂戴な」
と言いました。
「はい、承知致しました」
岩見銀山の薬が買いたければ、特に改まって酒屋の御用聞に頼むまでもあるまいに、先刻も女中が鼠を伏せて頻りに騒いでいたが、今もわざわざ岩見銀山を注文するのは、よくよくこの屋敷では鼠で困らされているのだろうと思いました。そこへ以前の女が銀瓶に水を満たして持って来ると、
「どうも御苦労さま」
お松はそれを受取って、もとの廊下を帰って行きます。忠作も、お松から岩見銀山を買うべく頼まれた小銭《こぜに》を持って屋敷の外へ出てしまいました。
兵馬が未《いま》だこの屋敷へ帰らず、忠作がそのまわりをうろつかない以前に、肩臂《かたひじ》いからした多くの豪傑がこの屋敷へ入り込みました。集まるもの十五六名。
例の南条力が牛耳《ぎゅうじ》を取っていて、このごろ暫く姿を見せなかった五十嵐甲子雄も、その側《わき》に控えています。
「さて、諸君」
南条が議長の役を承って、
「ここに一つ、諸君の志願を募りたいことがある、それは勿体《もったい》ないような仕事で、その実さまで勿体ないことではなく、子供だましのような仕事で、実は相当の危険がある、やってみることは雑作がなくて、やり了《おお》せた後に祟《たた》りが来ないとは言えない、金銭に積ってはいくらでもないが、ある方面の神経を焦《じら》すにはくっきょうな利目《ききめ》のある仕事だ」
「そりゃいったい何だ」
「実はこういうわけなのだ、上野山内の東照宮へ忍び込んで……じゃない、闖入《ちんにゅう》してだ、神前の幣束《へいそく》を奪って来るのだ、幣束に限ったことはない、東照権現の前にある有難そうなものを、すべてひっくり返して来るのだ、それを、こっそりやってはいけない、面白そうにやって来るのだ、東照権現が有難いものには有難いが、有難くないものにはこの通りだというところを見せて来ればいいのだ、そのお印《しるし》に幣束を持ち帰って来るのだ。事は児戯に類するが、その及ぼすところに魂胆《こんたん》がある」
南条はこう言いました。何のことかと思えば、徳川幕府の本尊様である東照権現の神前に無礼を加え来《きた》れという注文であります。なるほど、一派の志士には以前から、こういうことをやりたがっている人がありました。頼山陽の息子さんの頼三樹三郎《らいみきさぶろう》なんぞという人も、たしか東照宮の燈籠が憎かったと見えて、それを刀で斬りつけて、ついに捉《つか》まって自分の首を斬られるような羽目になりました。ここでもまた、東照宮の神前の幣束が目の敵《かたき》になってきたようです。なるほど、燈籠や幣束を苛《いじ》めたところで仕方がない、児戯に類する仕事であるが、それをやらせようという者には、相当の魂胆がなければなりません。
果して、それは面白いからやろうという者が続出しました。
全体が悉《ことごと》く志願者ですから、指名をすれば不平が出る、よろしい、主人役を除いてその余の同勢が悉く、明夕《みょうせき》押出そうということにきまって会が終りました。宇津木兵馬が帰って来たのは、その散会の後のことであります。
果してその翌日、上野の東照宮に思いがけない乱暴人が闖入《ちんにゅう》しました。
内陣の正面、東照公の木像を納めた扉の前に立っている、三本の金の御幣《ごへい》を担ぎ出したものがあります。事のついでに左右の白幣も、拝殿に立てた幣《ぬさ》も引っこ抜いて担ぎ出しました。お石《いし》の間《ま》で散々《さんざん》にお神酒《みき》をいただいて行った形跡もありま
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