明をやり出したのに驚かされました。
お喋り坊主はひきつづき、海の中に漂う海月《くらげ》のように、小路《こうじ》の暗いところで法然頭《ほうねんあたま》を振り立てて、
「わたくしが琵琶を習いはじめにお師匠さんが、薩摩の琵琶はこうだと弾《ひ》いて聞かせてくれました、あの国では、おさむらいたちのうちに専ら琵琶が流行しまして、二本差して琵琶を背負って歩く人が多いそうでございます、それで薩摩の国の琵琶は、おさむらい風の勇ましいものでございます、私共が習いました平家琵琶とは、なかなか趣が異《ちが》ったものでございます、けれども源《もと》はみんな一つでございまして、やはり、薩摩の琵琶も地神盲僧から出たものでございますから、わたくしがこうして耳を傾けて聞いておりますると、なるほどと思い合わせることが多いのでございます。エ、地神盲僧とは何だとおっしゃるのですか、地神の地の字は、天地の地の字を書くのでございます、神は神様の神という字、盲僧の盲は盲目でございまして、僧は出家の僧でございます、地神というのは地の神様、盲僧というのは、私共みたような目の見えない坊主のことでございます」
お喋《しゃべ》り坊主がこう言った時に、人々ははじめて、この坊主は盲目《めくら》であったのかと思って、その面《おもて》を篤《とく》とのぞき込みました。のぞかれてもそれと知る由もない弁信法師は、聴衆が静まっていると見て、なおそのお喋りをつづけました。
「そもそもこの琵琶というものを始めましたのが、天竺《てんじく》の妙音天でございます。妙音天が琵琶をお始めになったのでございますが、この妙音天というお方も盲目であったそうでございます。それでございますから、この妙音天様が地神盲僧の守り本尊になっているのでございまして、私共も琵琶を弾《ひ》きまする時は、その妙音天様を本尊と致します。また一説と致しましては、お釈迦様のお弟子のなかに巌窟尊者《がんくつそんじゃ》という方がございました、この方が、やはり盲目でいらっしゃいました、ところで、お釈迦様がかわいそうに思召されて、お前は目が見えないでかわいそうである、その代り心眼を開くがよろしい、心眼を開いて悟りに入れば、なまじい眼の見えるために、五欲の煩悩《ぼんのう》に迷わされる人たちよりは遥かに幸福であるとお教えになりました、そこで巌窟尊者が一心に修行を致されまして、ついに心の眼を開くようになりましたのでございます。いよいよ尊者が心眼をお開きになりました時に、妙音弁才天が十五童子をひきつれて、お釈迦様の御前で、琵琶の妙音曲を巌窟尊者にお授けになりました。その頃、中天竺に阿育大王《あいくだいおう》とおっしゃる王様がございまして、そのお世継《よつぎ》が倶奈羅太子《ぐならたいし》と仰せられました、一国の太子とお生れになりましたけれども、何の因果か、このお方がふとお眼をおわずらいになって、私共同様の盲目《めくら》の身となっておしまいになりました。四海を治め給う御方でも、私共のような漂泊《さすらい》の小坊主でも、眼が見えなくなりましては世間は闇でございます……」
「おやおや、雨が降って来ましたぜ」
さきほどから怪しかった空がバラバラと雨を落して来たので、集まっていたものがどよめき渡りました。そこで盲目法師のお喋りも一段落になって、濡れるを厭《いと》う人たちは、右往左往に馳せ出しました。
「もし、先生、長者町の道庵先生は、まだお屋敷にいらっしゃいますか、それとももはやお帰りになりましたか」
弁信の姿が表の門のところに現われて、案内を頼みましたのは、それより後のことでしたけれど、やや暫くというものは返答がありません。返答がありませんでしたけれど、自分の訪れは奥へ届いたものと信じて弁信は、それ以上には念を押さずに待っておりました。果してバタバタと廊下を渡って迎えに来た者があります。
「おお、あなたは弁信さんとおっしゃるお方でしたか、あなたも琵琶をお弾きになるそうですね、ただいま、こちらにも琵琶のお上手な方がおいでになりました、道庵先生もそれをお聞きになっていらっしゃいます、ぜひ、あなたもその席へおいで下さるようにと、先生も、皆様も、そう申しておいでなさいます、さあ、お上りくださいまし」
こう言って、わざわざ奥から弁信を迎えに来たのはお松であります。
「左様でございましたか、実は私もただいま外でお聞き申していたところでございました、それを聞かせていただきますれば、私と致しましても願ったり叶ったりでございます。そういうことでございますなら、好きな道でございますから、遠慮なしに上らせていただきますでございます」
弁信は杖をさしおいて、はや玄関へのぼってしまいました。
やがて弁信が広間へ案内されて見ると――弁信は盲目《めくら》だから見るわけにはゆきません、推量してみると、かなりの広間に、かなりの人が集まって、琵琶を弾いている人は、その広間の真中にいることはわかります。だから自然、聞く人は皆その周囲に端坐したり、柱にもたれたり、障子や唐紙《からかみ》をうしろにしたりしているということがわかります。
弁信が招ぜられたのは、例の道庵先生が控えているその次で、この際先生は謹聴しているのだか、それとも居眠りをしているのだか、ともかく、もっともらしく下を向いて控えていました。
静かに道庵の次へ坐った弁信は、やはり前と同じように歌のない琵琶だけが、老練な人の手によって弾きこなされているのを耳にします。それを聞いていると、弾いている人の年頃もほぼ想像されます。決して若い人ではない、年齢においてもかなりの老練家であり、それで琵琶を弾く人であって、歌わない人だということもわかります。歌えないのではなく、歌う必要のない琵琶を弾くことを心得ているもののようです。弁信はそれをいっそう面白く思って、いよいよ席を構えて、ほんとうに身を入れて、しんみりと聞こうとした時に、室の中程から立ちのぼる異様な臭気に打たれました。
勘の鋭いように、嗅覚《きゅうかく》もまた鋭敏であった弁信は、それほど好きな琵琶の音をさえ打忘れて、その立ちのぼる異様な臭気に心を取られました。
「おや」
その時に琵琶の主《ぬし》が代りました。琵琶ばかり弾いて、あえて歌わなかった一曲はそれで終って、新たに代った人が同じところへ坐って、徐《おもむろ》に歌い出したのが「木崎原」の一段であります。席はいよいよ静粛なものになりました。
薩摩の島津家にとっては「木崎原」の歌は大切な歌であります。藩主もこの木崎原を聞く時には端坐して、両手を膝の上へ置いて謹んで聞くのだそうです。それですから弾ずる人は無論のこと、ここに集まるすべての人が、みな相当の敬意を表して、いよいよ席が静粛なものになったのでしょう。
ひとり、道庵先生のみは相も変らず、謹聴しているのか、居眠りをしているのか、わからない形で、尤もらしく下を向いて控えていることは前と同じです。見ようによっては、下を向いて時々|欠伸《あくび》を噛み殺しているようにも見えるところが、この先生の持って生れた人柄です。
木崎原の琵琶歌は、島津家先祖の功業をうとうたもので、その初段の歌い出しはこういう文句であります。
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「つらつら世間の現象を観ずるに、積善の家には余慶あり、積悪の家には余殃《よおう》あり、尤《もっと》も慎むべきは此道也、ここに薩隅日三州の太守、島津|修理太夫《しゅりだいふ》義久と申し奉るは、うやうやしくも清和天皇の御苗裔《ごびょうえい》、鎌倉右大将征夷大将軍源頼朝公の御子、左衛門尉《さえもんのじょう》忠久公より十六代目の御嫡孫也、文武二道の名将にて、上を敬ひ下を撫で、仁義正しくましませば、靡《なび》かん草木はなかりけり、御舎弟には兵庫頭《ひょうごのかみ》忠平公、左衛門尉歳久公、中務大輔《なかつかさたいふ》家久公とて、何れも文武の名将なり、其の外、家の子|郎等《ろうとう》に至るまで、皆忠勤を励ませば、古今稀なる御果報、近国他国の者までも、羨まざらんはなかりけり……」
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こんなふうに、薩摩の国主の讃美歌になっているのだから、苟《いやし》くも薩摩に縁のあるものがこの歌を聞く時、多くの敬意を表さなければならないのは当然であります。
こうして一座が水を打ったようになり、歌う人の意気が、いよいよ昂《あが》って、
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「彼《か》の島津殿と申すは、かたじけなくも清和天皇の御末、多田満仲《ただのみつなか》よりこのかた、弓箭《ゆみや》の家に誉を取り、政道を賢くし給へば……」
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という大干《たいかん》にかかった時に、最初から鼻をひこつかせていた盲法師《めくらほうし》の弁信が、いよいよ法然頭を前後左右に振り立てて、さながら見えぬ眼に、何かを探そうとするらしき振舞のみが甚だ目ざわりです。
この弁信もまた、自ら名乗るところの如く、上手か下手かは知らないが、かりそめにもその道に心得のあるものだから、礼儀から言っても、趣味から言っても、もっと温和《おとな》しくしていなければならないはずのが、ついに堪り兼ねると見えて、
「あ、もし、皆様、せっかくの弾曲の間を大変に失礼でございますけれども、皆様に申し上げなければならないことが出来ました」
琵琶歌の半ばに、席の隅っこにいた見慣れぬ小坊主が叫び出したから、
「叱《し》ッ」
叱りつけた者がありましたけれど、弁信はそれを耳にも入れないで、
「もし、皆様、火薬の臭《にお》いが致しまする、このお部屋の中に烟硝《えんしょう》の臭いが致しまする」
言いも終らぬ時に、轟然《ごうぜん》たる響きと共にこの一室が、裂けて飛んだかと思われる家鳴《やなり》震動です。
静粛な弾曲の半ばに思い設けぬこの出来事は、一座のすべてを驚かさないわけにはゆきません。少なくとも三十余人は集まっていた勇士豪傑の驚きぶりが、またそれぞれ個性を発揮しているところが面白いと言えば面白いものです。或る者は二三間飛び退いて太刀を抜かんと構えました。或る者は下へつくばる[#「つくばる」に傍点]ようにして、身を沈めながら敵の呼吸を見るような形であります。或る者はまた、列座のうちの少年をかこうて、身を以て降りかかる災難に当ろうとするもあります。
けれども、誰ひとり、この思い設けぬ出来事の原因を知ったものはありません。謀叛人《むほんにん》がこの屋敷へきりこんだというわけでもなく、また謀叛が発覚して御用の手が混み入ったというわけでもなく、ただ一発の弾丸が――それも無論、大砲の丸《たま》ではなく小銃の弾丸が、つまり火鉢にかけた薬鑵《やかん》の下から爆発して、この場の空気をかくの如く破りました。
さりとて人命には露ほどの怪我はなく、犠牲になったものと言えば火鉢の薬鑵があるのみです。けれどもたとえ、小銃の弾丸一発といえども、在るべからざるところに在り、発すべからざるところに発したのは、どうしても由々《ゆゆ》しき出来事といわねばならぬ。
この出来事のために、集まっている人々の日頃の嗜《たしな》みというものが、露骨に現わされたことは、一種の試験といえば試験のようなものです。前に言ったような余裕を見せたのは、さすがに見苦しくもありませんでしたが、中には正銘に狼狽《ろうばい》して四つん這《ば》いの形になった者もないではありません。殊に道庵先生の如きは、たしかにそれまで居眠りをしていたものと見えて、その響きが起るや否や脆《もろ》くもひっくり返り、それも一つで済むのを、三ツ四ツ一度に宙返りをして、廊下の隅へころがり出して腰を抜かした形などは醜態です。最初に警告を与えた弁信法師は、爆発起ると見るや衣の袖に頭を包んで、その場に突伏してしまいました。
見上げたのは、木崎原の一曲を弾じている琵琶の老手で、この不時の出来事のために、撥《ばち》の捌《さば》きが少しも狂わず、歌いかけた歌の詞《ことば》に滞りがあるでもありません。大風の吹き去ったあとの枯野に端坐している心持で、従容《しょうよう》としてその一曲を弾じつづけ
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