頂の飯綱権現の社から下りて来ました。見受けるところ、二人がわざわざ道を枉《ま》げたのは、単にこうして飯綱権現の前へ安綱を、見せびらかしに来ただけであるようです。
二人が例の刀箱を持って高尾山を下りながら、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が、七兵衛に向って、一つの動議を提出致しました。
「どうだい、兄貴、こうして坊主持ちも根っから新しくねえ、これから江戸へ着くまで、二人で腕っくらべをやろうじゃねえか、おたがいに出し抜いて、せしめた方が、この刀を物にするということにしようじゃねえか、売り飛ばして山分けにするよりは、その方が柄《がら》に合って面白かろうぜ。もし、どっちの手にも落ちなかった時には、こりゃいっそのこと、鳥越の甚内様へ持って行って、さっぱりと納めてしまおうじゃねえか、どのみち、伯耆の安綱なんて刀は、誰が持ったって持ち切れる刀じゃねえ、持ちきれたにしたところで、差料《さしりょう》になる品じゃねえんだ、二人で腕だめしをやった上に、甚内様へ持って行って綺麗《きれい》に納めると、甚内様の供養にもなるし、こちとらの罪滅ぼしにもなろうというものだ。どうしたもんだ、兄貴」
がんりき[#「がんりき」に傍点]からこの動議を提出されると、七兵衛は苦笑いをしながら、
「そいつは面白かろう、手前《てめえ》を相手に腕くらべも大人げねえ話だが、甚内様へ奉納というのは、いいところへ気がついた」
そこで七兵衛も納得《なっとく》したらしい。高尾山から江戸までは、この連中にとっては、ほんの一足であるが、その一足の間に、伯耆の安綱の刀を的《まと》にして、二人が腕くらべをやってみようというようないたずらは、今に始まったことではないが、さいぜんから二人の口に上る甚内様というのは何物か。それは今までに見えなかった人の名であるに拘らず、この碌《ろく》でもない二人ともが、甚内様なるものには相当の敬意を払っていることがわかります。山の上では、甚内様、永護霊神様といい、ここでは鳥越の甚内様と言いました。もし、二人のうちのいずれにもこの伯耆の安綱の刀が落ちなかった場合には、それを鳥越の甚内様へ持って行って納めるということには、二人とも異議がないのであります。よってここに、鳥越の甚内様なるもののいわれ[#「いわれ」に傍点]を一通り、説明しなければならぬ。
八
浅草の鳥越橋の西南に、御書院番の小出兵庫《こいでひょうご》(二千百石)という旗本の屋敷の中に、二人が今いう甚内様の社があるのです。
神に祀《まつ》られるほどの甚内様とは何人ぞ。それは英雄にもあらず、また義人にもあらず、一箇の盗賊に過ぎないのであります。姓を高坂《こうさか》といって、名は甚内。父は甲陽の軍師高坂弾正であるということです。
「天晴《あっぱ》れ手練のこの槍先、受けてはたまらぬ大切《だいじ》の幼な児……」という二十四孝の舞台面は、かなりに高坂弾正の器量を上げるように書いてあります。そのはじめ、容貌を以て信玄に愛せられたところを以て見れば、また非常な美男子であって、その後、「保科《ほしな》弾正|槍弾正《やりだんじょう》、高坂弾正|逃弾正《にげだんじょう》」を以てあえて争わなかったところは、沈勇にして謀《はかりごと》を好む人傑の面影を見ることもできます。武田信玄の股肱《ここう》として、一二を争う智将であったことは疑うべくもない。
その高坂弾正に一人の遺子《わすれがたみ》がありました。幼名を甚太郎といい、後に甚内と改めたその人がすなわち、鳥越の永護霊神として、半ば実在の人となり、半ば荒誕《こうたん》の人となり、奇怪な盗賊として祀らるるに至りました。
父が没してこの遺子は、祖父の高坂|対馬《つしま》に伴われ、没落の甲州をあとにして、摂州|芥川《あくたがわ》に隠れて閑居しているところへ、祖父の知人であった宮本武蔵が訪ねて来て、夜もすがら語り明かした時に、祖父の対馬が甚内を武蔵に預けました。そのとき甚内は、まだ甚太郎といって、年僅かに十一歳であったということです。
十一歳にして宮本武蔵に預けられた甚内は、その時から武蔵に従って江戸に下り、武蔵が神田お玉ケ池の近傍に道場を開いた時(武蔵がお玉ケ池へ道場を開いたことがあるかどうか考えないで伝説をそのまま借用すると)、そこで武蔵から真免流の免許皆伝を受けました。それは甚内が二十一歳の時のことであるということです。
その時分、甚内は人の活胴《いきどう》を試みたく、ひそかに柳原の土手へ出て、往来の人を一刀に斬り倒していたが、或る時、飛脚を斬って金を奪ってから、ついに辻斬が盗賊にまで進んだ。それより悪行が面白くなり、辻斬をしては金を奪い、その金で鎌倉河岸の風呂屋女に耽溺《たんでき》していたが、その悪事が師なる宮本武蔵の耳に入って破門された。そこで諸国の遍歴を志し、その門出に参詣したのがこの高尾山の飯綱権現の社であった。その社の前で、名を甚内と改めて、生涯のある目的を祈願した。それから相州の平塚在に暫く足を留めて、そこで盗賊の首領となった。その後、箱根山へ隠れて強盗の張本となった。高坂甚内は、宮本武蔵に就いて剣道の奥儀を究《きわ》めた上に、強勇にして力量がある。ことに水練に達して久しく水底《みずそこ》に沈み、水の中を行くこと魚の如くであったと言われている。加うるに身体は不死身《ふじみ》であって、一切の刀剣も刃が立たないということでありました。
その頃、「日本三甚内」とうたわれた三人の甚内があった。三人ともに同名で、そうして同じく兇悪なる盗賊であった。右に言う高坂甚内をその随一とし、もう一人は、庄司甚内――である。これは吉原を初めて開いた人であるが、前身はやっぱり盗賊で、剣槍《けんそう》に一流を究め、忍術に妙を得て、その上、力量三十人に敵し、日に四十里を歩み、昼夜眠らずして倦《う》むことなく、それに奇妙なのは盗賊ながら日本を週国して、孝子孝女を探り、堂宮《どうみや》の廃《すた》れたのをおこして歩いたというところが変っている。それともう一人は、飛沢甚内――これも同じく剣術、柔術、早業に一流を極め、幅十間の荒沢《あらさわ》を飛び越えること鳥獣よりも身軽であったところから、自ら飛沢と名乗った。これが捉まった時に、大久保彦左衛門の命乞いによって死罪を許され、身持ちを改め、苗字を富沢とかえ、横目の御用を蒙《こうむ》り、古着屋商売をして無事に天命を終えた。その住宅附近が後に富沢町となった。
かくて高坂甚内は、箱根山に籠《こも》って悪事を働いていたが、詮議が厳しく、箱根山の住居もなり難く、そこを立退いて諸国を徘徊《はいかい》していたが、やがて再び江戸に舞い戻ると赤坂に住居を構え、例によって辻斬、強盗のほかには、表面は剣術を人に教え、内実は無頼の徒を集めて博奕《ばくえき》を業としていた。悪行いよいよ募って、そのころ牛込御門内に住居していた先手役《さきてやく》青山主膳(千五百石)の組与力同心《くみよりきどうしん》が召捕りに向ったところ、同心二人まで深傷《ふかで》を負い、与力も辛《から》き目に遭ってほうほうの体《てい》で逃げかえった。それを聞いて歯噛みをした主膳は、自ら召捕りに向わんとしたけれども、叛逆謀叛人でない限りは奉行自身に召捕りに向うという例はなく、さりとて無敵の悪人であるから、ウカと手を下し、味方を損ずるのも愚であると召捕りの方法を思案しているうちに、甚内が瘧《おこり》を患《わずら》い出したということを聞き込んで、押入ってついにこれを捕縛することができた。それで牢の中へ入れて、病気が癒《なお》った後に改めてお伺いの上、浅草元鳥越橋際において死罪に行うことになった。ところが、生来の不死身であったところから容易に刀剣が身に立たない。よって甚内が日頃所持していた槍を取寄せて磔《はりつけ》にかけてしまった。――その後、引廻しの者の先へ抜身の槍を二本立てる。その一筋の槍は、高坂甚内を磔《はりつけ》にかけた槍であると言い伝えられている。こうして高坂甚内なる無類の兇賊は一生を終ったけれど、その兇賊が神に祀らるるに至った理由はほかにあるのです。
右の高坂甚内は、寛永の中頃から正保年間までの間の人で、その時分の南の仕置場は、本材木町五丁目にあり、北の仕置場は、元鳥越橋の際《きわ》にあったということです。甚内が鳥越橋でお処刑《しおき》になる最後の時の言葉に、瘧《おこり》さえ患わなければ、召捕られるようなことはなかったのだ、我れ死すとも魂魄《こんぱく》をこの土《ど》に留め、永く瘧に悩む人を助けんと言いながら、槍に貫かれて死んだということで、それから甚内様に病気平癒を祈り出す者が多くなった。その願書には男女の別と年齢と、いつごろより患い出したかということと、何卒この病気癒させ給えという祈願とを認《したた》め、上書《うわがき》には高坂様、或いは甚内様と記して奉る。病気は瘧に限ったことはなく、ほかの病気でも瘧と書いて願いさえすれば治る。願が満ちて病気が癒った時は、鳥越橋から魚の干物と酒を河の中へ投げ込んでお礼参りをする。縁日は毎月の十二日で、例祭は八月十二日、甚内が処刑せられた日ということになっている。
二人のいう、甚内様、永護様という変態な神様の縁起《えんぎ》は、大よそこういったようなもので、二人は例の伯耆の安綱を坊主持ちにして、高尾の山の飯綱の社から、浅草鳥越まで行く間に、その名刀の処分をきめようとするのであります。
けれども、これは東海道の道筋などとは違って、何を言うにも十里内外の道中ですから、二人の足では横町を走るくらいのものだから、出し抜こうにも、出し抜くまいにも、あっけないもので、江戸の市中へ入ってしまいました。
江戸の市中へ入って、まもなく二人の姿は昌平橋の袂《たもと》へ現われました。いつぞや貧窮組が起った時に、貧民が群集して、お粥《かゆ》を煮て食べたところに、今日も人だかりがあります。その人だかりの真中に大きな万燈《まんどう》があって、その下で口上言いが拍子木を叩きながら頻《しき》りに口上を言っています。
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安房の国
清澄の茂太郎は
幼い時に
父母に死に別れ……
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口上言いが、甘いような、憐れっぽいような、一種異様な節で、歌ともつかず、口上ともつかぬことを言っていました。
がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、それを聞きながら、ふと万燈の表を見ると筆太に、
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「清澄の茂太郎」
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と書いてある右の方へ持って行って、
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「両国橋女軽業大一座」
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とあったから、ちょっと妙な気持になっていると、七兵衛が、
「百、ありゃ、お前の女房がやってるらしいぜ」
「そうだなあ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]も、なんだか、ムズがゆいような面《かお》つきで万燈をながめていると七兵衛が、
「甚内様は、後廻しにして、両国へ行ってみようか」
「そうよなあ」
「久しぶりで会ってやりたかろう」
「そういうわけでもねえのだが、あいつがこうやって、俺の方に渡りをつけずに、花々しいことをやり出したとすると、ちっとばかり腑に落ちねえところがあるんだ」
「だって、札附きの無宿者のあとを追蒐《おっか》けて、いちいち相談をするというわけにもいかなかろうじゃねえか」
「そりゃそうだが、あいつの器量で、これだけのことをやり出したとすると、後立てがあるに違えねえ、あいつに相当の金を出してやろうという後立ては、まんざら色気のねえ奴とも思われねえんだ、そうだとすりゃ、どういう心持で、あいつがその御厚意を受けたか、その辺がちっと聞きものだ」
「こいつは、ちっとばかり嫉《や》ける」
がんりき[#「がんりき」に傍点]がムズがゆい面をしていると、七兵衛があざ笑いました。
九
その晩のことでありました。両国橋の女軽業もハネて、楽屋の真中に大柄などてら[#「どてら」に傍点]を引っかけて立膝をしながら、長い煙管《きせる》で煙草を輪に吹い
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