、名のりかけ、名のりかけ、手取りにせんと追うて行く……三保谷《みほのや》が着たりける、兜《かぶと》の錣《しころ》を取りはずし、取りはずし、二三度逃げのびたれども、思う敵なれば遁《のが》さじと、飛びかかり兜をおっとり、えいやと引くほどに……」
[#ここで字下げ終わり]
 面白がって道庵は「景清」の謡《うたい》をおっぱじめました。
「先生、謡どころじゃありません、やってますぜ、やってますぜ、斬合いが始まってるんだから、早くこっちへ逃げておいでなさいまし」
 ようやく小さな声で、これだけのことを言って、最後の力で引張り込もうとしたが、この場合において三保谷の方が、役者が一枚上であったから始末にゆきません。腕から辷《すべ》って羽織の裾に取りつき、錣引《しころび》きが草摺引《くさずりび》きになったけれども、このたびの朝比奈もまた、あまりに意気地のない朝比奈で、五郎|時致《ときむね》は、またあんまりふざけ[#「ふざけ」に傍点]過ぎた五郎時致でありました。
「先生、怪我があっても知りませんぜ、しっかりしなくっちゃいけません」
 せっかく、飛び出した男が持て余している時に、柳橋の角から、星明りの闇夜《
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