無くなってしまうかも知れません。お銀様はそれを承知なんでしょう。それでも不意に書きかけた筆をさしおいて、梯子段《はしごだん》の上り口を見返るのは、どうも人が上って来るような気配がして、トントンと梯子段の途中まで上って来ては、そこで立ち止まっているものがあるように思われてならないからです。
昔、なにがしの聖《ひじり》が経文を写しはじめると、悪魔が苦しがって邪魔に来たということでありますが、お銀様の発心《ほっしん》を妨げる悪魔がそこまで来て、経文の功力《くりき》で上へ昇れないのかも知れません。けれどもお銀様はそれを悪魔だとは思っておりません。たしかに梯子段の下まで来た人がそこで迷うて、二階まで上りきれないものだろうと思っています。その人というのは竜之助ではありません。竜之助とは全く別な人が下まで来て迷うて、ここへは上りきれないものだと思われてならないのです。お銀様が写経の心願を起したのは、甲府の躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の古屋敷で、神尾主膳の残忍な慾望の犠牲となって虐殺された幸内の菩提《ぼだい》を弔《とむら》わんがために始まったのが、中ごろから、法文をうつす殊勝な心よりも、今はかえって針
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