に命がけで懸想《けそう》した男であります。その執念深い恋が、ついには物になって、お豊をつれて紀伊の国の竜神へ行って温泉宿の亭主となったその男であります。その宿から火が出て竜神の村を焼いた時に、竜之助はその男を、なんの苦もなく日高川の水上《みなかみ》へ斬って落しました。その後、お豊の話によると、金蔵は嫉妬《しっと》ゆえに狂い出したものだそうです。お豊と、ある前髪の若いさむらい[#「さむらい」に傍点]との間を疑《うたぐ》って、それから狂い出したということであります。取るに足らぬ男ではあったけれども、その執念の深いことは怖るべきものでした。垣根を忍び越えようとして竜之助のために泥田へ投げ込まれた恨みも、植田丹後守が自分を遠ざけるがために、お豊をかくまったことも、ことごとく、彼にとっては恨みの種でありました。ついには鉄砲を持ち出して、お豊以外の邪魔物をすべて撃ち殺そうとして失敗《しくじ》った程の執念であります。弾薬を明神の杉の木の根に埋めて、これを植田丹後守に見つかって、それがために処におられなくなったけれども、恋を捨てることができません。いろいろに浮身《うきみ》をやつして、ついにお豊の心を靡《なび》かせてしまいました。心は靡かないにしても、女をわが物とすることができました。その時のことを、竜之助はよく見て知っていたものです。知ってそのままに、十津川の旗上げに加わりました。
 今や、その男の執念がここにめぐって来たものと見えます。竜之助の眼にうつるのは、髪をふり乱した藍玉屋の金蔵であります。斬られつ追われつしているのは、かつて三輪の社頭で見たその時のすべての人々であります。藍玉屋の親爺もあれば、薬屋の夫婦のものもあります。植田丹後守に召使われた男や女たち、それに、はじめて三輪へたどりついた時に、将棋をさして無駄口を叩いていたすべての面《かお》が、いずれも面の色を変えて逃げ惑うている光景がありありと現われます。
 阿修羅のように荒れ出した金蔵が、血刀を振りかざして、遥かの彼方《あなた》の野原から此方《こちら》をのぞんで走って来る光景がありありと見えます。
「お父さん、助けて下さい――」
 女の子の声が、金《かね》をきるように竜之助のみみもとに響く途端に、竜之助の横鬢《よこびん》を掠《かす》めてヒヤリと落ちて来た狂人の刀。小癪《こしゃく》とも言わずに右手を伸べた竜之助は、狂人の脇差の柄《つか》を握って、邪慳《じゃけん》にそれをひったくると、高く振り上げて、水を掻くように無雑作に振り下ろすと、左の肩から垂直に胸の下まで斬り下げました。日高川の上で金蔵を斬って捨てたのが、やっぱりこの手でした。
「あっ!」
 狂人は二言ともなくそこへのめ[#「のめ」に傍点]ってしまいました。
 四方《あたり》の原は、大風の吹き荒した後のように静かなものです。
 燃えさかっていた野火も消えてしまい、それを消そうと騒ぎ廻った人も在らず、寥々《りょうりょう》たる広野の淋しさを感じた時に、ふと気がつきました。
 斬ったのは金蔵ではないが、その女は、もしやお豊とは言わないか。
 辱《はずかし》められたる不貞の女の憎み、憎む女の肉を食《くら》い、骨を削りたくなるのは、彼の膏肓《こうこう》に入れる病根であるかも知れない。竜之助は、金蔵を斬ったこの刃で、その女を併《あわ》せて殺したくなりました。彼の右の手には、悪血《あくち》がむず[#「むず」に傍点]痒《がゆ》いほどに湧き上って来る。よし、その女が生きていようとも、すでに殺されていようとも、あくまでこの刃をその女の豊満した肉に突き立てて、その血を啜《すす》らなければ飽かぬ思いが、ぞくぞくと全身にこみ[#「こみ」に傍点]上げて来ました。
 竜之助が、男から奪い取ったその脇差を離さないのはこの故です。この広野原のいずれかを尋ねたならば、かならずその女の肉体がころがっているに相違ない。求めてその肉を食《くら》わなければ、渾身《こんしん》に漲《みなぎ》る悪血をどうすることもできない。
 それにしても、盲法師の弁信はどうしたろう。提灯が消えてしまったからとて、無事でいるならば、あのお喋り好きが何か文句を言い出さない限りはないのに、それが一言も言わないのは、かわいそうに、これも狂人の刃にかかって敢《あえ》なき最期《さいご》を遂げたのか。原をうずめていた無数の人だかりはどうしたものだ。狂人の勢いに怖れをなして一旦は逃げ散っても、また盛り返して取押えに来なければならないはずであるのに、四辺《あたり》に人の近づく気配はない。

 森閑として物淋しさが身に沁《し》みると、夢ではないかと思います。夢でなければ狐につままれたものでしょう。巣鴨の庚申塚あたりには悪い狐が出没する。この場の座興に同勢を狩り催して、二人の盲人をからかってみたものかも知れない
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