無くなってしまうかも知れません。お銀様はそれを承知なんでしょう。それでも不意に書きかけた筆をさしおいて、梯子段《はしごだん》の上り口を見返るのは、どうも人が上って来るような気配がして、トントンと梯子段の途中まで上って来ては、そこで立ち止まっているものがあるように思われてならないからです。
 昔、なにがしの聖《ひじり》が経文を写しはじめると、悪魔が苦しがって邪魔に来たということでありますが、お銀様の発心《ほっしん》を妨げる悪魔がそこまで来て、経文の功力《くりき》で上へ昇れないのかも知れません。けれどもお銀様はそれを悪魔だとは思っておりません。たしかに梯子段の下まで来た人がそこで迷うて、二階まで上りきれないものだろうと思っています。その人というのは竜之助ではありません。竜之助とは全く別な人が下まで来て迷うて、ここへは上りきれないものだと思われてならないのです。お銀様が写経の心願を起したのは、甲府の躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の古屋敷で、神尾主膳の残忍な慾望の犠牲となって虐殺された幸内の菩提《ぼだい》を弔《とむら》わんがために始まったのが、中ごろから、法文をうつす殊勝な心よりも、今はかえって針で肉を刺す痛快味が、お銀様の身にこたえるようになりました。
「お嬢様、乱暴なことをなすってはいけません」
「いいのよ」
 幸内の抑える声がしたかと思うと、お銀様はいっそう反抗的に、針を二の腕へブツリと強く刺し込みました。
「あ、痛!」
 自分ながら、あんまり強く刺し込み過ぎたのを驚いて、あわてて引き抜こうとしたはずみに、ポツリとその針がなかばから折れてしまいました。ただ折れたんならいいけれど、半分折れたのは肉の中に食い止まっていて、折れたその半分だけが自分の指先に残りました。そこで、さすがにお銀様もハッとしましたけれども、折れた半分の針はどうしても抜くことができません。口を当てて吸い取ろうとして空《むな》しく努力しました。幾度口を当てて吸い上げても、お銀様の舌に磁石の力が備わっていない以上は、肉の中に残った針を引き出すことはできないのです。できないのをお銀様は、自棄《やけ》に吸い上げ吸い上げしたものですから、滲み出る血を、すっかり口中に吸い取りました。紙を開いて、それを吐き出して見ると、白紙の上に牡丹の花を散らしたように真赤な血です。
 その時に人の気配がして、いつのまにかお銀様の背後《うしろ》に立っていたのは、悪魔でもなければ、幸内でもありません。それは真蒼《まっさお》な面《かお》をした竜之助でありました。
 お銀様はそれを見るや、
「お帰りあそばせ」
 肉に食い入っている針のことは忘れて、喜び迎えました。
 けれども竜之助は、お銀様が今まで何をしていたか、いま何をしたのだかを見ることができませんから、いよいよ冷然たる上に冷然たるもので、じっと突立っているうちにも、いつもと違っているのは、右の手に一本の尺八を携えていることです。
 この人は今まで、どこに何をしていたのだろうということはお銀様もまだ尋ねはしません。竜之助もまたそれを語ろうともしません。尺八と刀とを荒っぽくそこへ投げ出した竜之助は、手さぐりして夜具をはね返すと、その中へもぐり込んで寝てしまいました。お銀様は眼を凝《こ》らしてその挙動をながめていました。
 その沈黙が暫く続いてから後、
「もし、あなた」
 お銀様は枕許へ坐って優しい言葉をかけました。この時も返事はありません。
「針がここへ刺さって痛くてたまりません、誰か抜いて下さる方があればいいのに」
 お銀様は独言《ひとりごと》を言いました。それでもなんとも挨拶がありません。
「半分、この肉の中へ折れ込んでしまっているのですから、とても抜けやしませんね、どんな大力の人だって、この針ばかりは抜き取ることはできやしません、抜かないでおくと、きっとここから肉が腐りはじめるでしょうよ、そうしているうちに、この手を切ってしまわなければ、身体中が腐ってしまいましょう、悪いことをしてしまいましたね」
 お銀様は、独言を言って、折れた針の創《きず》から滾々《こんこん》と湧き出す血汐を面白そうにながめています。竜之助はそれを聞いているのか聞いていないのか、相変らず死んだもののように寝込んでいるのは、よくよく疲れきったものと見えます。
「もし、あなた、私の身体《からだ》が腐ってもいいのですか」
 お銀様は物狂いでもしたように、荒らかに竜之助を夜着の上から揺ぶりました。それでも答えがありません。
「わたしはこうして血を絞ってお経を書いていました、もし、わたしの身体がここから腐っていいのなら、わたしはもう、この血でお経を書きません、書きかけたお経は反古《ほご》にしてしまいます、この血で歌を書いてしまいます。あなた、お経を書いた方がいいでしょうか、それとも
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