、泣きたいほどに悶《もだ》えました。
この苦痛に翻弄《ほんろう》されて、へとへとになって相生町の老女の家へ帰って見ると、自分の部屋に人が一人いて、無遠慮に兵馬の机へ寄りかかって物を書いています。
「おお南条殿、いつお帰りになりました」
それは南条力でありました。
「やあ宇津木君、どこへ行っていた」
どこへ行っていたと言われた兵馬は、
「つい、そこまで」
と勢いのない返事です。
「君、面《かお》の色がよくないぞ」
南条はその爛々《らんらん》たる眼で、兵馬の面をジロリと見て、
「君が意気銷沈《いきしょうちん》していると娘たちが心配する、それに君、あまり外泊はせん方がよろしいぞ」
「…………」
兵馬はグッと詰まりました。
その時に南条力は、書きかけていた筆をさしおいて、膝を兵馬の方に向き直らせ、
「君のことだから、そうばかげたこともすまいけれど、はたで見ているものは相当に気を揉むらしい。気を揉ませぬようにしてやってくれよ、周囲《まわり》の者に気を揉ませるのがいちばん毒じゃ」
南条は光る眼をすずしくしてこう言いました。その言葉の節々《ふしぶし》が何もかも心得ているもののようで、真綿で首を締められるように苦しくもあるが、この人だけに頼もしいところもあります。
思案に余った上、兵馬はついに今の胸の中を、南条力に向って打明けました。
それを聞いていた南条力は、
「してみると、その気の毒な女を救うてやりたいが金が無いということに帰するのじゃな。ぐずぐずしていれば他人が引き抜いて持って行くかも知れぬという怖《おそ》れもあるのじゃな。ともかくも傾城《けいせい》一人を身請けするというからには、相当の金がいるはずである、よほど遊んだ金を持っている奴でなければできないことじゃ。宇津木君、君がそんなことに関係したのは柄ではない、よろしく見殺しにするに越したことはないのだが、君もここまで切り出して拙者に相談を打つからには、退引《のっぴき》ならぬ義理もあるのだろう、乗りかかった船で、ぜひに及ばぬ羽目になっているのだろう、ここは一番、拙者が肌をぬいでやろうかな」
こう言って莞爾《かんじ》として笑いました。兵馬にとってはこの一言が頼もしいような、擽《くすぐ》ったいような感じがしました。けれども、冗談《じょうだん》にしろこの男が一肌ぬいでやろうと提言してくれたことは、非常なる心強さで、思わず息がはずむと、
「ところで、その傾城を身請けして、いったい当人はどうするつもりじゃ、宿の女房にでも据えようとするのか、ただしは囲い者にでもしておこうというのか……まあいいわ、その辺はあらかじめ聞いておくべき必要はない。しかし拙者が肩を入れるとしてもだ、世間の金持の遊冶郎《ゆうやろう》のするように、大金を抛《ほう》り出して、馬鹿を尽した引かせ方はせぬつもりじゃ。少々|悪辣《あくらつ》な手段をめぐらすつもりだが、結局は理窟に合って行くやり方をして見せる。つまり正面から掛け合っては、埒《らち》が明かない上に金がかかるから、それで悪辣の手段を講じておいて善後策を上手にやる。その悪辣の手段というのは、女を盗み出すことじゃ、女を盗み出しておいて、親許《おやもと》を説き落してそれから談判させるのだ。女を盗み出すことは拙者に任せるがよい、親許を説き落すことも、拙者に任せるがよい、それがために要する多少の金銭も、拙者が君に免じて立替えてもよろしいが、宇津木君、その交換条件という意味ではないが、君に一つ頼みたいことがある」
と言いました。なるほど、やりそうなことである。南条ならば部下の二三の浪士を差向わして、女を盗み出させるくらいは朝飯前である。そうしておいて威力と和解と両方面から事を纏《まと》めることも、この男としては容易《たやす》い仕事であると思いました。それで兵馬は内心、非常に喜ばしく思って、一も二もなく南条に信頼することに決めました。況《いわ》んや南条から交換条件の意味であってもなくても、頼むと言われて、それを躊躇する気なぞは更にありません。その時に南条がおもむろに言いました、
「君に頼みたいことというのは、拙者共の仕事をするのにとかく邪魔になる奴が一人ある、水戸の浪人で山崎譲といって、鹿取流の棒にかけてはなかなかの達者だが、君の力でそいつをひとつ片づけてくれまいか」
意外にも南条の頼みというのは、宇津木兵馬の力によって、山崎譲を暗殺させようとのことであります。
その翌日の夕方になって、兵馬が、ついまたふらふらと迷うて行く足どりは、吉原の方面であります。
昨夜もここで夜を明かして、今朝帰ったばかりであるのに、またしてもこの門をくぐらなければならないように仕向けたのは誰が悪い。
兵馬が行った時に東雲《しののめ》にはほかの客があって、兵馬は暫く待たせられました。
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