二

 ちょうど、その晩のことでありました。柳橋の、とある船宿の二階で、手紙を読んでいるのは駒井甚三郎であります。
「殿様、あの、お客様が参りました」
 取次いだのは、宿のおかみさんらしくあります。
「あ、待ち兼ねていた、ここへ通してもらいたい」
 駒井は読んでいた手紙を巻きながら、待っていると、
「御免下さりませ」
 おかみさんに案内されてそこへ面《おもて》を現わしたのは、年の頃五十恰好で、しかるべき大工の棟梁《とうりょう》といったような人柄の男でありましたが、甚三郎を見ると急に改まって、
「これはこれは駒井の殿様でござりましたか、これはお珍らしいところで、思いがけなくお目にかかりまする」
 恭《うやうや》しくそこへ両手を突いたが、驚きのうちにも、相当の親しみがあるらしい。
「寅吉、ほんとに暫くであったな」
「いや、もう、ずいぶん思いがけないことでございました、お手紙が届いてから、どなた様かとしきりに思案を致しては参りましたが、駒井の殿様とは、夢にも存じませんことでございました」
「まあ、ともかく、こちらへ入るがよい」
「それでは、御免を蒙りまして」
 寅吉と呼ばれた棟梁らしい男は、駒井の傍近く膝行《にじ》り寄って、頭を下げました。
「相変らず壮健《たっしゃ》で結構だな」
「はい、おかげさまで風邪一つ引きも致しませんが、いったい殿様は、その後、どちらにおいであそばしました。江川様にお目にかかった時お聞き申してみましたが、江川様も御存じがないそうでございました、多分、西洋の方へおいでになったんじゃなかろうかと、おっしゃってでございましたが、ここで殿様にお目にかかろうとは、ほんとに夢のようでございます」
「まあ、それを話すと長いことになるがな、拙者は今、房州に行っている」
「へえ、房州においででございますか、房州はどちらでいらっしゃいます」
「房州は洲崎《すのさき》じゃ、もと砲台のあった遠見の番所に隠れていたのが、仔細《しさい》あってこのごろ江戸へやって来た、噂《うわさ》を聞くと、近頃そちは芝の江川のところに来ているそうだから、ぜひとも会ってみたい心持になって、あの手紙を遣《つか》わしたのじゃ、早速、出向いて来てくれて忝《かたじけ》ない」
「どう致しまして、そうおっしゃって下されば、伊豆が長崎におりましょうとも、いつでも出向いて参ります。私はまた小
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