だって、ただの女じゃありませんか」
 子曰《しのたまわ》くや、こそ侍《はべ》れのうちに、こんな浮世絵草紙を見出したことがお角には、かえって味方を得たように頼もしがられて、皮肉な笑いを浮べながら、窓の光に近いところへ持ち出して、その絵巻を繰りひろげて見ると、
「おや?」
と言って、さすがのお角がゾッとするほど驚かされました。
 それは、絵巻のうちの美しい奥方の一人の面《かお》が、蜂の巣のように、針か錐《きり》かのようなもので突き破られていたからです。悪戯《いたずら》にしてもあまりに無惨な悪戯でありましたから、お角は身ぶるいしました。急いでその次を展《ひろ》げて見ると、それは花のような姫君の面《おもて》が、やはり無惨にも同じように針で無数の穴が明けられていました。
「おお怖い」
 その次を展げると、水々しい町家の女房ぶりした女の面が、今度は細い筆の先で、無数の点を打ちつけて、盆の中に黒豆を蒔《ま》いたようになっています。
 あまりのことに呆《あき》れ果ててお角は、それからそれと見てゆくうちに、一巻の絵本のうち、女という女の面《かお》は、どれもこれも、突かれたり汚されたり、完膚《かんぷ》のあるのは一つもないという有様でした。
「あんまり、これでは悪戯《いたずら》が強過ぎる、なんぼなんでも僻《ひが》みが強過ぎる」
 お角は、この悪戯がお銀様の仕業《しわざ》であることは、よくわかっています。そうして、この絵本のうち、美しい男も、好い男も、強そうな男も、いくらも男の数はあるけれども、それには一指も加えないで、女だけをこんなに傷つけ散らし、汚し散らして、ひとり心を慰めようとするお銀様の心持も大概はわかっているが、それにしてもあんまり僻みが強過ぎて、空怖ろしいと思わずにはおられなくなりました。
 いったい、お角はかなり人を食った女で、男も女も、あんまり眼中には置いていない方だが、どうもお銀様という人にばかりは、一目も二目も置かなければ近寄れないような心持で、これまでいるのが不思議でした。
 あの呪われた、お銀様の顔が怖ろしいというわけではなく、どうもお銀様の傍へ寄ると、お角は何かに圧えつけられるようで、ほかの男や女のように、容易《たやす》くこなす[#「こなす」に傍点]ことができません。何を言うにも大家の娘で、持って生れた品格というものが、お角と段違いなせいであるならば、お角は駒井能登守にも、神尾主膳にも、あんなに心安立てにはできないはずだが、お銀様にジロリとあの眼で睨められると、口から出ようとした言葉さえ、咽喉へ押詰ってしまうのが、自分ながら腑甲斐《ふがい》のないことに思われて、あとで焦《じれ》ったがるが、その前へ出ると、どうしても段違いで相撲にならないことが自分でわかるだけに、口惜《くや》しくてならないでいるのです。
 お銀様の応対は、いつも懐中に匕首《あいくち》を蓄えていて、いざと言えば、自分の咽喉元へブッツリとそれが飛んで来るようで、危なくてたまらない。お銀様は、たしかに武術の心得もあって、何者でも身近く寄せつけないだけの用意は、いつでもしている。神尾主膳ほどの乱暴者でも、うっかり傍へ近寄れないのはそのせいでもあるが、お角の近寄れないのはそれだけではない。どこがどう強くって、どんなに怖いのだかわからないなりに、お角にとってはお銀様が苦手《にがて》です。
 お角はその絵本を見ると、お銀様の生霊《いきりょう》がいちいちそれに乗りうつって、この薄暗い土蔵の二階の一間には、すべて陰深《いんしん》たる何かの呪いの気が立てこめているようで、怖ろしくてたまらないから、急いで絵の本を伏せて、梯子段の降り口にかかりました。
 離れにいるお絹は、このごろでは、ずっと以前のように切髪に被布の姿で、行い澄ましておりました。母屋《おもや》の方へは滅多に出入りしないけれども、どうしたものか、お角が来た時だけは、お絹の神経が過敏になります。今日もお角が訪ねて来たことを知って、
「また、あの女が来たようだから、お前、御苦労だが様子を見て来ておくれ」
と召使の女中に言いつけて出してやりました。そのあとへ、
「御新造《ごしんぞ》、おいでか」
 庭先から入り込んで来たのは、前に福兄と言った大奴《おおやっこ》であります。いつのまにか着物を着替えて若党の姿になり、脇差を差して刀を提げ、心安立てに縁から上って来ました。
「おや、福村さん」
と言って、お絹は愛想よく迎えました。お角に言わせればこの人は福兄で、ここへ来ては福村さんになる。前の時は奴風で、ここではもう若党に早変りしているのが、化物屋敷の化物屋敷たる所以《ゆえん》でありましょう。
 若党の福村は座敷へ入って、しきりにお絹と話をしていたが、暫くして、
「これから大将のお伴《とも》と化けて、番町まで出向かにゃならん、今日はこれで失礼」
と言って、慌《あわただ》しく辞して行きました。
 お絹は、それを見送っていましたが、やがてハタと障子を締めきって、
「面白くもない」
 つんと机に向き直って頬杖をつき、すこぶる不機嫌の体《てい》であります。それは実際、お絹にとっては面白くないことでしょう。今の福村の話というのは要するに、お角を賞《ほ》めに来たようなものなのです。お角が房州まで出かけて行って、あやうく命拾いをして帰った上に、掘出し物を買い込んで来るし、それに大名だか旗本だか知らないが、ともかくも身分あるらしい立派な金主をつかまえて、近日花々しく両国橋で、二度の旗揚げをしようという運びになっていることを福村が、お絹の前で話して、相変らずあの女の腕の凄いことを吹聴《ふいちょう》して行きました。
 お絹の前で、お角の腕の凄いことを吹聴するのは、つまりお絹の腕のないことをあてこすり[#「あてこすり」に傍点]に来たとひが[#「ひが」に傍点]まれても仕方がない。イキとハリとになっているのを、福兄が知らないはずはなかろうと思われます。女軽業にしろ、見世物にしろ、女の腕一つで、一旗揚げようというのはともかくエライことでないことはない。そうして切って廻して屋敷へまで吹聴に来られるのを、指を啣《くわ》えて見せつけられるのは、お絹として納まらないことであるのは申すまでもないことです。
「忘れた、忘れた、印伝《いんでん》の煙草入を忘れてしまった」
 一旦出て行った福村が後戻りして来たから、何かと思うと煙草入を忘れているのです。なるほど、火鉢の下に転がっているのは、ほんものか擬《まが》いか知らないが、とにかく印伝革の煙草入であります。
 福村は無精《ぶしょう》に、縁側から手を突き出して、
「済みませんが突き出しておくんなさい、でもその印伝はほんものだから安くねえんだ、ほんものだということで両国橋の太夫元が、おれにくれたんだ、だから、おいらにとってお安くねえ代物《しろもの》だ」
「持っておいで」
 お絹はゲジゲジでも摘《つま》むように、その印伝の煙草入を取り上げると、ポンと縁側へ抛《ほう》り出しました。
「おや御新造、いやに荒っぽいんですね」
 福村は抛り出された煙草入を、わざと丁寧に拾い上げておしいただく真似をして腰へさし、トットと行ってしまいました。

         十七

 その晩のことでありました、吉原の大門《おおもん》を出た宇津木兵馬は、すれ違いに妙な人と行逢って、それを見過ごすことができなかったのは。それは羽織袴に大小を帯びた立派な武家の姿をしていたが、供人は一人もつれず、面《おもて》は厳重に覆面で包んでいます。
 兵馬はこの廓《さと》へ出入りするごとに、往来の人の姿に注意を払っていないことはない。ことに覆面した武家姿のものに向っては、尾行までしてみることが一度や二度ではなかったが、この時すれ違った覆面の人もまた、その例に洩るることができませんでした。
 兵馬はワザとやり過ごして様子をうかがうと、この覆面の武家の後ろ姿に合点《がてん》のゆかぬ節々が幾つも現われてきます。第一、この武家の歩きぶりがつとめて勢いよく闊歩しているようなものだが、どこやらに無理があります。第二には、差している大小が釣合わないということはないが、なんとなく重そうに見えて、差し方がこなれていないことです。この二つを以て見ると、さるべき者が、わざと武士の姿をして来たものか、そうでなければ、病気上りの人ででもありそうです。
 兵馬は、あまり不思議だから、非常中の非常手段ではあったが、ワザと近寄ってその武家にカチッと、自分から鞘当《さやあ》てを試みました。
 武士として鞘当てを受けたのは、果し状をつけられたようなものであるにかかわらず、その武家は知らぬ顔に、人混みに紛れて逃げ去ろうとするのは歯痒《はがゆ》い。
 到底このままには見過ごし難いから、あとをつけると、件《くだん》の覆面は人混みに紛れて、見返り柳をくぐり土手へ出て、暫く行くと辻駕籠《つじかご》を呼びました。
 それを見ると兵馬も、同じように駕籠を傭おうと思ったけれど生憎《あいにく》それはなし、刀と脇差を揺《ゆ》り上げて、いずこまでもこの駕籠と競争する気になりました。
 この駕籠は、竜泉寺方面から下谷を経て、本郷台へ上ります。
 本郷も江戸のうちと言われた、かねやすの店どころではなく、加州家も、追分も、駒込も、いっこう頓着なしに進んで行くこの駕籠は、果してどこまで行ってどこへ留まるのだか、ほとほと兵馬にも見当がつかなくなりました。
 しかしながら、駕籠は、なおずんずんと進んで行くうちに、左右は物淋しい田舎《いなか》の畑道のようなところになっているようです。おおよその方向と、歩いて来た道程で察すれば、駒込の外れか、伝中《でんちゅう》あたりか、或いは巣鴨まで足を踏み入れているかも知れないと思われます。
 とあるお寺の門の前へ来て、はじめて駕籠がハタと留まりました。兵馬も足をとどめて物蔭から遠見にしていると、駕籠賃も酒料《さかて》も無事に交渉が済んで駕籠屋は引返す。駕籠を出た覆面は、お寺の門の中へは入らずに、垣に沿うて横路へ廻る。左がなにがし大名の下屋敷とも思われる大きな塀、右は松並木で、その間に、まばらに見える茅葺《かやぶき》の家が、もう一軒も起きているのはありません。茶畑があって、右へ切れる畑道の辻に庚申塚《こうしんづか》があります。そのとき兵馬は、もうよかろうと思って、後ろから、
「お待ち下さい」
「エ!」
 兵馬に呼びかけられて、覆面の武家は悸《ぎょっ》として立ちどまりました。追いついた兵馬は、
「お待ち下さい」
と言ってわざと、覆面の刀の鐺《こじり》を取りました。
「どなたでございますな」
 覆面の武家は、非常なるきょうふに打たれたようですけれども、その言葉は丁寧で、そうして物優しくありましたから、兵馬はかえって自分の挙動の、あまりになめげ[#「なめげ」に傍点]であることを恥かしく思うようになりました。そのはずです、兵馬に他の目的があればこそ、我から進んでこんな無礼な振舞をしてみようとはするものの、これらの仕打ちは一種の不良少年か、追剥《おいはぎ》類似の、ずいぶんたち[#「たち」に傍点]のよくない挙動と見られても仕方がないのであります。先方が、いよいよ恭謙であり、礼儀正しくあることによって、兵馬は自分で浅ましいと思いながらも、ここまで来ては退引《のっぴき》のならぬことですから、
「お見忘れでござるか、先刻、大門にて御意《ぎょい》得申した、あの御挨拶が承りたいために、おあとを慕うてこれまで参りました。あれはいったい、拙者に恨みあってなされたか、ただしは、お人違いでもござったか、武士の一分そのままにはなり難き故、ぜひ御返答が承りたい」
 兵馬は心苦しくも、こうして性質《たち》の悪い強面《こわもて》を試みると、件《くだん》の覆面はいよいよ神妙に、
「あれは人違いでござりまする、平《ひら》に御容捨を願いまする」
 こう言われて、兵馬はまたも取りつく島がありません。こっちから無礼を加えた上に、ここまでついて来て、なお執念深く喧嘩を売りかけようというのだから、もう堪忍袋《かんにんぶくろ》が切れてよかりそうなも
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