の潤わせぶりが、至って寛大で豊富であったから、その行列が宿々のものから喜ばれた持て方は非常のものでしたそうです。それで中仙道を、誰いうとなく加賀様街道と呼ぶようになったのは、名実共にさもありぬべきことと思われます。
 これに反して、嫌われ者は、尾張と薩摩で、これはどうかして三年に一度ぐらい、この関所へかかることがあるが、金は使わないくせに威張り散らすという廉《かど》で、関の上下におぞけ[#「おぞけ」に傍点]を振わせたものだそうです。それで近頃まであの附近では、泣く児をだますのに、それ尾張様が来たといってオドかしたものだそうです。
 そんなようなわけで、碓氷峠の関所、実は横川の関所は、毎日、明けの六《む》つから暮の六つまで、人を堰《せ》いたり流したりしていましたが、これはもちろん、その時刻にしてはあまりに早過ぎることなのであります。
「さあ、やって来たぞ」
「来た、来た」
 南条と五十嵐とは、例の陣場ケ原の焚火から立ち上って、ながめたのは関所の方角ではなくて、やはり熊野の社の鎮座する峠の宿の方面でありました。
 なるほど、何物かがやって来る。耳を傾けると鈴の音が聞えるようです。蹄《ひづめ》の音もするようです。あちらの方から、馬を打たせて来るものがあることは疑うべくもありません。
 まもなくそこへ現われたのは、馬子に曳《ひ》かれた二頭の馬でありました。
 峠を越ゆる馬は、一駄に三十六貫以上はつけられないのだから、荷物の重量としてはそんなに大したものとは思われないが、それに附添っている武士が三人あります。そうして馬の背の上に、梅鉢の紋らしいのが見えるところによって見れば、これは、やはりこの街道の神様である加州家に縁《ちなみ》のある荷馬《にうま》であることも推測《おしはか》られます。
 それと見た南条力は、ズカズカとその馬をめがけて進んで行きました。無論、五十嵐甲子雄もそれに従いました。
 これは、馬子も宰領も、すわやと驚かねばならぬ振舞です。この二人だからよいようなもの、そうでなければまさに山賊追剥の振舞であります。
「待ち兼ねていたわい」
 南条力は低い声でこう言って馬の前に立ち塞がると、不思議なことに馬も人も更に驚く風情《ふぜい》はなく、ハタと歩みをとどめてしまって、
「まず、上首尾」
と言った声は、前なる馬子の口から発せられました。落着いたもので、馬子風情の口吻《く
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