で傍《かたわら》にいる清吉と呼ばれた男も、あの時バッテーラの艪《ろ》を押していた男であります。二人はあの時、目的通りに外国船へ乗り込むことができなかったものと思われます。外国船へ乗り込むことができなかったものとすれば、いつのまにここへ来てなにをしているのだろう。しかし、いまはそれらを調べるよりは、遠眼鏡の眼前に横たわる人の形というものが問題です。昨夜あれほどの暴風雨であってみれば、海岸に異常のあるのはあたりまえで、それを検分するがために、甚三郎は遠見の番所から出て、わざわざ遠眼鏡をもって、この巌の上に立っているものと思わなければならないのです。
「そうですね、行ってみましょうか」
清吉が鈍重な口調で、甚三郎の面《おもて》をうかがうと、甚三郎は遠眼鏡を外《はず》して片手に提げ、
「行こう」
「おともを致しましょう」
そうして二人は巌の上から駆け下りました。甚三郎は王子の火薬製造所にいた時以来の散髪と洋装で、清吉もまた髷《まげ》を取払って、陣羽織のような洋服をつけています。二人とも、足につけたのは草鞋《わらじ》でも下駄でもなく、珍らしい洋式の柔らかい長靴でありました。
二人ともこうして砲台下を南へ下りて、海岸づたいに走り出しました。
「平沙《ひらさ》の浦は平常《ふだん》でも浪の荒いところですから、あんな暴風雨《あらし》の晩に、一つ間違うと大変なことになりますね」
「左様、平沙の浦には暗礁《あんしょう》が多いから、晴天の日でも、ああして波のうねりがある、漁師たちも恐れて近寄らないところだが、もし、あれが人間であるとすれば、洲崎沖あたりで船が沈み、それが岸へ吹寄せられたものであろう、おそらく土地の漁師などではあるまい」
「そうでしょうかね、もし、房州通いの船でも沈んだんじゃないでしょうか」
「或いはそうかも知れん」
遠見の番所の下から、洲崎の鼻をめぐって走ること五六町。
「ああ、やっぱり人だ」
「なるほど、人間ですね」
二人は、その見誤らなかったことを喜びもし、また悲しみもし、その浜辺に打上げられた人間のところをめがけて、飛ぶように走《は》せつけました。
磯に打上げられている人間は、女でありました。もとよりそれは息が絶えておりました。着物も乱れておりました。肌もあらわでありました。けれども、身体《からだ》そのものは極めて無事なのであります。それは波に打上げられた
前へ
次へ
全103ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング