一つで、船の中の者が残らず救われたんだ、だから……」
 船頭がお角の面《おもて》を見つめたままでこう言いかけた時に、お角は颶風《つむじかぜ》のように身を起して、
「だから、どうしようと言うの、だから、わたしをどうかしようと言うの」
 お角の船頭を睨《にら》んだ眼もまたものすごいものでありました。それでも船頭はやっぱりお角を睨み返しながら、
「いや、お前さんをどうしようというわけじゃあございません、お前さんの量見に聞いてみてえんでございます」
「エ、わたしの量見ですって? わたしの量見を聞いてどうするの」
「この船の中で、女のお客はお前さんだけなんですね、今まで女一人のお客というのはなかったこの船に、今日に限ってお前さんが乗り込むとこの通りの暴風《しけ》だ」
「それがどうしたの、それじゃあ、わたしが一人でこの暴風を起しでもしたように聞えるじゃないか」
「お前さんが暴風を起したんじゃないけれど、お前さんがいるために暴風が起ったようなものだ」
「何ですと、わたしが暴風を起したんじゃないけれど、わたしがいるために暴風が起ったようなものですって? 同じことじゃないか、それじゃあ、やっぱり、わたし一人がこの暴風を起したということになるんじゃないか、ばかばかしいにも程があったものさ」
 外の暴風雨《あらし》よりも船頭の言い分が、お角にとっては決して穏かに聞えませんでしたから、躍起《やっき》となって抗弁しました。
「船頭さん、お前、なんだかおかしなことを言い出したね」
 お角に附添って来た庄さんという若い男も、堪《たま》り兼ねて喧嘩腰になりました。
「いいや、おかしいことじゃねえのです、今日に限ってこんなことになるのは、こりゃあ必定《てっきり》、船の中に見込まれた人があるのだ、その見込まれたというのはほかじゃねえ、船ん中でたった一人の女のお客様を、海の神様が嫉《そね》んでいたずら[#「いたずら」に傍点]をなさるに違えねえのだから、お気の毒だがその人に出て行って、海の神様にお詫《わ》びがしてもらいてえのだ。なにも、こりゃ俺が無慈悲でいうわけじゃありませんよ、船の乗合みんなの衆のためですよ、もし、お前さんがみんなの衆の命を助けてやりてえという思召しがあるんなら、あの大昔の、あの橘姫の命様《みことさま》の思召しのように……」
と船頭がここまで言い出すと、お角は怺《こら》えられません。

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