里見八犬伝は、その発祥地を諸君の領内の富山《とやま》に求めているし、それよりもこれよりもまた、諸君のために嬉し泣きに泣いて起つべきほどのことは、日蓮上人がやはり諸君の三十五方里の中から涌《わ》いて出でたことであります。
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「日蓮は日本国東夷東条、安房の国海辺の旃陀羅《せんだら》が子なり。いたづらに朽《く》ちん身を法華経の御故《おんゆゑ》に捨てまゐらせん事、あに石を金《こがね》にかふるにあらずや」
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 日蓮自ら刻みつけた銘の光は、朝な朝な東海の上にのぼる日輪の光と同じように、永遠にかがやくものでありましょう。
 その日蓮上人は小湊《こみなと》の浜辺に生れて、十二歳の時に、同じ国、同じ郡の清澄《きよすみ》の山に登らせられてそこで出家を遂げました。それは昔のことで、この時分は例の尊王攘夷《そんのうじょうい》の時であります。西の方から吹き荒れて来る風が強く、東の方の都では、今や屋台骨を吹き折られそうに気を揉《も》んでいる世の中でありましたけれど、清澄の山の空気は清く澄んでおりました。九月十三日のお祭りには、房総二州を東西に分けて、我と思わんものの素人相撲《しろうとずもう》があって、山上は人で埋まりましたけれど、それは三日前に済んで、あとかたづけも大方終ってみると、ひときわひっそり[#「ひっそり」に傍点]したものであります。
 周囲四丈八尺ある門前の巨杉《おおすぎ》の下には、お祭りの名残りの塵芥《じんかい》や落葉が堆《うずたか》く掻き集められて、誰が火をつけたか、火焔《ほのお》は揚らずに、浅黄色した煙のみが濛々《もうもう》として、杉の梢の間に立ち迷うて西へ流れています。その煙が夕靄《ゆうもや》と溶け合って峰や谷をうずめ終る頃に、千光山金剛法院の暮の鐘が鳴りました。
 明徳三年の銘あるこの鐘、たしか方広寺の鐘銘より以前に「国家安康」の文字が刻んであったはずの鐘、それが物静かに鳴り出しました。その鐘の声の中から生れて来たもののように、一人の若い僧侶が、山門の石段を踏んでトボトボと歩き出しました。
 身の丈に二尺も余るほどの金剛杖を右の手について、左の手にさげた青銅《からかね》の釣燈籠《つりどうろう》が半ば法衣《ころも》の袖に隠れて、その裏から洩れる白い光が、白蓮の花びらを散らしながら歩いているようです。
 身体《からだ》はこうして人並
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