にどこをくぐってか、もう庭の中へ入り込んでいて、しかも、極めて物慕わしげに、竜之助の傍へ寄って行くことであります。
 ムクが近寄ると、竜之助がその手を伸べて頭のあたりを探って撫でてやると、ムクは、ちゃんと両足を揃えて、竜之助の傍へ跪《ひざまず》きました。
 竜之助は何か言って犬の頭へ手を置いて、犬と一緒に仲よく日向ぼっこをしている体《てい》です。
 これは米友にとっては、非常なる驚異でありました。ムクは、そうやすやすと一面識の人に懐《なつ》くような犬ではない。彼は善人を敵視しない代りに、悪意を持った者に対しては、ほとんど神秘的の直覚力を持った犬であります。まあ、伊勢から始まって、この江戸へ来ての今日、ムクがほんとうに懐いている人は、お君と、おいらと、それからお松さん――その三人ぐらいのものだと思っている。しかるに、いま自分の傍を離れて、かえって、見も知りもせぬ、あの奇怪極まる盲者《もうじゃ》の傍へ神妙に侍《はべ》っているムクの心が知れない。
 米友は何か知らん、胸騒ぎがしました。じっとしていられないほどに惑《まど》わしくなりました。声を立ててムクを呼び立ててみようとして、身を屈《かが》めて、手頃の小石を拾い取るや、右の手をブン廻すと、小石は風を切って庭の中に飛んで行きました。
「誰だ、いたずらをするのは」
「おいらだ、おいらだ」
 米友は百日紅《さるすべり》の枝を伝って、塀を乗り越してやって来ました。米友の投げた小石をそらした竜之助は、刀を抱えて、障子をあけて、家の中へ入ってしまいました。
「ムク」
 そのあとで、徒《いたず》らに眼をパチパチさせた米友は、持っていた杖の先でムクの首のあたりを突いて、
「お前は家へ帰れ」
 そう言ってから、いま竜之助があけて入った障子を細目にあけて、
「おい先生、どうしてるんだ、寝てしまったのかい」
 それでも返事がないからズカズカと上って行きました。それで枕屏風の上から中を覗き込んで、
「おい先生、お前、昨夜《ゆうべ》はどこへ行った」
 その言葉は、米友としても突慳貪《つっけんどん》であります。
「どこへも行かない」
「冗談いっちゃいけない、今度という今度こそは、すっかり手証《てしょう》を見たんだ。お前は、昨夜辻斬をしたな」
「そんなことがあるものか」
「ねえとは言わせねえ。驚いちゃったよ、その身体でお前が毎晩、辻斬に出るというんだ
前へ 次へ
全103ページ中100ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング