土手で別れたムク犬であります。
「ムク、昨夜《ゆうべ》、手前《てめい》なんだっておいらを置いてけぼりにして、どこかへ行っちまったんだ、先廻りをしてこんなところへ来ているとは人が悪《わり》いな、人じゃなかった、犬が悪いんだ――だが、お前は良い犬だ」
米友はムク犬の頭を撫でてやりました。ムク犬は米友に従って薬師堂の裏手へ廻ると、そこで米友がピタリと足を留め、
「なるほど、この百日紅《さるすべり》の木がいい足場になるんだ、この枝を伝わってああ行くと、塀を躍《おど》り越すなんぞは盲目《めくら》にもできらあな。よし、今日はひとつ、あの枝をぶち落しといてやれ、どうなるか」
板塀の上から枝を出した百日紅の樹を、しきりに睨《にら》んでいました。
「だが、やっぱり、わからねえことは、わからねえ」
米友は、百日紅の枝を仰ぎながら、ここまで来ても、やっぱり思案に暮れて、いよいよその面《おもて》を曇らしています。
実際、このごろ中は、米友の頭では解釈しきれないことが起っているに相違ないのです。それで米友はこのごろ中、毎晩のように、夜中になると刎《は》ね起きて、例の手槍を肩にして外へ飛び出します。飛び出す時の米友の面《かお》は、
「ちぇッ、また出し抜かれたな」
という表情で、或る時は町家の軒下をくぐり、或る時は屋根の上を躍り越えたりして、深夜の市中を走ります。たしかに、何者かを追蒐《おっか》けて出たのだが、その帰り来った時には、いつも呆然自失《ぼうぜんじしつ》です。何物をも認めることなくして出かけ、何物をも得るところなくして帰るのです。帰り来ると、がっかりして、囲炉裏《いろり》の傍に座を構えながら、枕屏風《まくらびょうぶ》を横目に睨んで、
「ちぇッ」
舌を鳴らして額の皺《しわ》を深くしながら、火を焚きつけることが例になっているのであります。
昨夜――むしろ今暁のことは例外でありました。今まで、そうして深夜に物を追蒐けて出ても、その当の目的とするものを何もつかまえては帰らなかったように、自分も、夜番にも、辻番にも、尻尾《しっぽ》を押えられるようなことはなしにここまで来たが、昨夜はついに、辻番と検視の役人の前に立たねばならなくなりました。
しかし、それは、鐘撞堂新道の相模屋の雇人であるということで、お蝶の巧妙な証明も役に立って無事に釈放されて、今になって帰っては来たものの、昨夜、家
前へ
次へ
全103ページ中98ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング