んなことは苦になりませんよ、毎晩こうやってお燈明《とうみょう》をつけに行く心持と、高燈籠へ火をうつして油がぼーと燃える音、それから勤めを果して、こうしてまた帰って来る心持と、それが何とも言えませんね……雨風といえば、近いうちに大暴風雨《おおあらし》があるって、あの茂太郎がそう言いました、大暴風雨のある前には、蛇が沢山《どっさり》樹の上へのぼるんだそうですがね、本当でしょうか知ら、まあ、お気をつけなさいまし」
誰も相手が無いのに、盲法師はこう言ってから、金剛杖を取り上げてそろそろ歩き出しました。
三
けれども、その夜から翌日へかけては、べつだん雨風の模様は見えませんでした。三日目になって朝から曇りはじめたといえば曇りはじめた分のことで、これまた急には雨風を呼ぼうとも思えません。江戸の方面とても無論それと同じ気圧に支配されているのですから、その日の亥《い》の刻《こく》に江戸橋を立つ木更津船《きさらづぶね》は、あえて日和《ひより》を見直す必要もなく、若干の荷物と二十余人の便乗の客を乗せて、碇《いかり》を揚げようとする時分に、端舟《はしけ》の船頭が二人の客を乗せて、大童《おおわらわ》で漕ぎつけました。
その二人の客の一人は、どうも見たことのあるような年増の女です。つとめて眼に立たないようにはしているけれど、こうして男ばかりの乗客の中へ、息をはずませて乗り込んでみると、誰もその脂《あぶら》の乗った年増盛《としまざか》りに眼を惹《ひ》かれないわけにはゆかないようです。この女は、両国橋の女軽業の親方のお角であります。
「庄さん、それでもよかったね、もう一足|後《おく》れると乗れなかったんだわ」
「いいあんばいでございましたよ」
お伴《とも》であるらしい若い男は、歯切れのよい返事をして、
「皆さん、少々御免下さいまし、おい、小僧さん、ここへ敷物を二枚くんな。親方、これへお坐りなさいまし、ここが荷物の蔭になってよろしうございます」
船頭の子から敷物を二枚借り受けて、酒樽の蔭のほどよいところへ、それを敷きました。帆柱の下にあたる最上の席は、もう先客に占められているのだから、まあ、この若い者が見つくろったあたりが、今では恰好《かっこう》のところであろうと思われます。
お角は遠慮をせずにその席へつくと、若い者がその傍へ、両がけの荷物を下ろして、どっかと坐り
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