生町まではかなり大儀な道だけれども、慾と二人づれでは、さして苦にもならねえのさ。幸いここに一両ある、これをくずすのは惜しいけれども、大慾は無慾に似たりというのはつまりここだ、これを張り込んで景気よく、相生町まで駕籠を飛ばせることだ」
 金助は、ここでからりと心持が変って、廓《くるわ》をあとに大門を飛び出して、景気よい声で辻駕籠を呼びます。

         八

 その晩、宇津木兵馬は不意に、金助が尋ねて来たという案内で、何事かと思うと、
「夜分、こんなにおそく上って済みません。いや、驚きましたね、まだお休みにならず、ちゃんと袴《はかま》を着けて御勉強でございますか、恐れ入りました」
 言わでもの空口《からくち》を言って跪《かしこ》まり、
「まことに穏かならぬことが出来ましたから、それで取敢《とりあ》えず御注進に参りました」
と言って金助は、吉原で見た神尾主膳のことを遠廻しに話した上に、神尾から心づけを貰ったことの暗示をして、兵馬から若干《いくらか》の小遣《こづかい》にありついた上に、せき立つ兵馬を抑えて、わざとゆっくり構え込み、
「しかし、宇津木様、そうお急ぎにならずともよろしうございます、あの里へお入りになったものが、宵《よい》に来て宵に帰るというようなのはたんとございません、それよりか宇津木様、お忘れ物のないように、くれぐれも御用心をしていらっしゃいまし」
「これでよい、何も忘れ物はない」
「左様でもございましょうが、ほかへ参るのと違いまして、あの里へ参るんでございますから、御用心の上に御用心が肝腎《かんじん》でございます、その御用心が足りませんと、飛んだ恥を掻くようなことがあったり、またみすみす大事なものを取逃がすようなことがないとも限りません、あの里ばかりは別な世界でございますからな」
 遠廻しに言うけれども、やはり、その帰するところは同じようなことであります。
「なるほど」
 兵馬は、それを覚《さと》らないほどに迂闊《うかつ》ではありません。そこを金助が見て取って、
「何しろ、先方様は大籬《おおまがき》へ、茶屋からお上りになったんでございますからね、こちらもそのつもりで二十両や三十両がところは用意して参りませんと……」
 金助からそう言われて、兵馬はハタと当惑しました。兵馬の懐中にはその当座の小遣《こづかい》として、二三両の金を持っていたばかりです。「
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