関の山なんだけれど、それもこのごろの懐ろ工合じゃ覚束《おぼつか》ねえや、こうして吉原の真中へ入り込んで、景気のいいところを見せつけられながら、たそや[#「たそや」に傍点]行燈の数をかぞえて歩くなんぞは我ながら、あんまり気が利かな過ぎて涙が溢《こぼ》れらあ、なんとか工面はつかねえものかな」
 金助はこんなことを言いながら、声色屋《こわいろや》がお捻《ひね》りを貰うのを羨《うらや》んでみたり、新内語りが座敷へ呼び上げられるのを嫉《そね》んだり、たまにおいらん[#「おいらん」に傍点]の通るのを見て口をあいたりしながら、笠鉾《かさほこ》の間を泳いでいましたが、
「おやおや、ありゃあ、たしかに見たことのあるお侍だ、俺の見た目に曇りはねえはずだが、もう一ぺん見直し……」
 二三間立戻って、いま箱提灯に送られて茶屋を出た、二人連れの武士体《さむらいてい》の跡を逐《お》いました。
「そうれ見ろ、間違いっこなし、見覚えのあるも道理、神尾の殿様があれだ、あれが甲府で鳴らした神尾の殿様だ。もし……」
 金助は後ろから呼び留めようと、咽喉《のど》まで声を出して引込ませ、
「向うも身分があらっしゃるから、うっかり言葉をかけて失敗《しくじ》っちゃあ詰らねえ、いったい、どこの店へお入りなさるんだか、心静かに見届けておいての上……ああ、天道|人《ひと》を殺さずとはよく言ったものだ、金助がこうして詰らなく泳いでいるのを、天が哀れと思召せばこそ、ああしていい殿様を授けて下さる」
 金助は雀躍《こおどり》をして喜びながら、駈け出して行く途端、たそや[#「たそや」に傍点]行燈の下で文《ふみ》を読んでいた侍にぶっつかろうとする。
「無礼者」
「御免下さいまし」
 危なくそれを避けて、今度は天水桶に突き当ろうとして、それも危なく身をかわし、見え隠れに神尾主膳と覚しき人のあとを追って行きました。
 神尾主膳と机竜之助とが、万字楼の見世先《みせさき》へ送り込まれようとする時に、
「もし、殿様、躑躅ケ崎の御前」
 金助がこう言って横の方から呼びかけたので、神尾主膳が振向きました。
「金助……」
「へえ、金助でございます、殿様、どうもお珍らしいところで、エヘヘヘヘヘ」
「貴様もこっちに来ているのか」
「へえ、流れ流れて、またお江戸の埃《ごみ》になりました、殿様には相変らず御全盛で結構でいらっしゃいます」
「いいところ
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