まだ早かろうのに一二匹の蚊が出て、ぶーんと耳許で唸《うな》りました。それを掌で発止《はっし》とハタいて打ち落し、うつらうつらと枕に親しみかけました。
 けれども、外はその通りに騒がしいのに、今や全村の犬も鶏も声を揚げてなきだしました。人畜ともに寝ることのできない晩に、竜之助とても安々と眠るわけにはゆきません。ただ横になったというだけで、外の騒ぎを聞き流していようというのであります。
 この東山梨というところは、言わば全体が笛吹川の谷であることは竜之助もよく知っていました。三面から翻倒《ほんとう》して来る水が、この谷に溢れ返る時の怖ろしさも、相当に峡東《こうとう》の地理の心得のある竜之助にとっては、理解ができないでもありません。
 しかし、この時分になっては竜之助は、天災の来ることを怖れるよりは寧《むし》ろ、山が大きな口をあいて裂け、我も、人も、家も、獣も、ことごとくブン流されてみたら面白いだろうという空想に駆られて、かえって外の騒ぎを痛快に思うような心持でいました。外の騒ぎもようやく耳に慣れた時分に、竜之助は眠りに落ちました。
「もし、お客様」
 竜之助が眠った時分になって、誰やら家の外から叫びました。
「もし、お客様」
 見舞に来るならば、もっと早く、まだ眠らない時分に来てくれたらよかりそうなものを、いくら食客《いそうろう》だからといって、今まで一人で抛《ほう》って置いて、ようやく眠りに就いたのを起しに来るとは、大人げないと思えば思えないでもありませんでした。
「あ、誰だ」
と、眠りかけていた竜之助は、その声で直ぐに呼び醒まされました。
「御用心なされませ、今夜はお危のうございます」
「危ないとは?」
「こんなに水が出て参りました、山水がドッと押し出すとお危のうございますから、本家の方へおいでなさいまし、お待ち申しておりまする」
「それは御苦労」
「どうか直ぐにおいで下さいまし」
と言い捨ててその者は行ってしまいました。よほどあわてていると見えて、家の外からこれだけの言葉をかけて、その返事もろくろく聞かないで取って返してしまいました。
 竜之助はあえてその言葉に従って、本家の方へ避難をしようという気は起しませんでした。寧《むし》ろ起き直ってみることさえも億劫《おっくう》がって、せっかく破られた夢を再び結び直すのに長い暇を要することなく、村のあらゆる人々の恟々《きょ
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