へ帰ったということだ」
「そいつは表面《うわべ》のことなんだ、内実は穢多《えた》のために生捕られたという評判よ」
「それも裏の裏で、おれが思うには、まだ裏があると思うんだ」
「してみると神尾は江戸へも帰らず、穢多にも捉まらずに、無事にどこかに隠れているとでも言うのか」
「そうよ、あいつはどう見ても、穢多に取捉《とっつか》まるような男でねえ、あの奴等にしたからっても、なんぼ何でもお組頭のお邸へ火をつけて、大将を浚《さら》って行くなんて、それほどの度胸があろうとは思われねえじゃねえか」
「なるほど、そういえばそんなものだが、それにしちゃあ狂言の書き方が拙《まず》いな、拙くねえまでもあんまり綺麗《きれい》じゃねえ」
「どのみち、あの大将も破れかぶれだから、トテも上品な狂言を択《えら》んじゃあいられねえ、そこで病気を種につかってみたり、穢多を玉にしてみたり、どうやらこれで一時を切り抜いたものらしいよ」
「ふむ、そうすると病気も穢多も、みんな狂言の種かい」
「あの火事までが狂言だとこう睨《にら》んでるんだが、どんなものだ。あの大将、いよいよ尻が割れかかって、どうにもこうにも始末がつかねえから、それで奴等にかこつけて、自分で屋敷へ火をつけたんだ」
「なるほど」
「火をつけて罪は奴等へなすりつけておいて、帳尻の合わねえところは焼いてしまった……おいおい、向うから役人みたようなのが来るぜ、気をつけなくっちゃあいけねえ」
道を外《そ》らして行く二人の旅人、その若い方はがんりき[#「がんりき」に傍点]らしく、やや年とった方は七兵衛らしくあります。
この二人は何のために、また甲府までやって来たのだろう。ここには駒井能登守もいないし、神尾主膳もいなくなったし、宇津木兵馬も、机竜之助も、お松も、お君も、米友も、ムク犬も去ってしまったのに、なお何かの執着があって来たものと見なければなりません。
いつぞや持ち出した安綱の刀、それをどこぞへ隠しておいたのを、取り出しに来たものかと思えば、そうでもなく、二人はその足で直ぐに甲府を西へ突き抜けてしまいました。
それから例の早い足で瞬く間に甲信の国境まで来てしまい、山口のお関所というのは、別に手形いらずに通ることができて、信州の諏訪郡《すわごおり》へ入りました。諏訪へ着いたら止まるかと思うと、そこでも止まりません。いったい、どこへ行くつもりだろう
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