リスも、揚々と出入りして、遊女たちも露を厭うような、しおらしい風情《ふぜい》はあんまり見受けないようでした。岩亀楼とはどこだか知らないが、兵馬もあの話は誰かのこしらえごとではないかと思いました。
兵馬の頭はこの新しい開港場へ来ると、いたく動揺してしまいました。何か大きな渦の中へでも捲き込まれて行くような心持で町の中を去って、また小高い丘へ登りました。そこで松の木蔭に坐って横浜の港と東海筋とを、しんみりと眺めました。大きな渦へ捲き込まれそうであった頭の動揺がここへ来ると、また静かになりました。そうして松の木蔭でゆっくりと休みながら海を見ていると、この時にかの大きな船が煙を吐きはじめました。やや暫く見ているうちに、徐々としてその船が動き出しました。
黒烟《こくえん》を吐いて本牧《ほんもく》の沖に消えて行く巨船の後ろ影を見送っているうちに、兵馬は、壮快な感じから、一種の悲痛な情が湧いて来るのを、禁ずることができません。
誰を送るともなしに、あの船の行方に名残《なご》りが惜しまれるようになりました。その船が見えなくなった後に、自分は敵《かたき》をうたねばならない身だと思って、雄々しくも、腰の刀を揺り上げて立ちました。
底本:「大菩薩峠5」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 三」筑摩書房
1976(昭和51)年6月20日初版発行
※「躑躅《つつじ》ケ崎《さき》」「一ケ所」「二ケ所」「鬼ケ島」の「ケ」を小書きしない扱いは、底本通りにしました。
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2002年9月21日作成
2003年6月15日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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