米友は眼を光らせました。それから尾を引いたような長い唸りが続きました。
矢庭《やにわ》にその席を立った米友は、また屏風のところへ行って覗いて見ました。さきには右枕になっていた竜之助が、今度は左枕になって寝ていました。蒼白い面には苦悶の色がありありと現われていました。気のせいか、一筋の涙痕《るいこん》が頬を伝うて流れているもののように見えますけれども、やはりよく眠っているには睡っているに違いありません。
また炉辺《ろばた》へ帰った米友は、火を引いて鍋を自在からこころもち揺り上げました。
ここに米友は、不思議の感に打たれています。昨夜、この人を追うて出てついに行方《ゆくえ》を見失ったが、それとは別にはからざる人を助けて来ました。
相生町の老女の家へ、人と犬とを送り届けて、昨夜出た人の行方を心許《こころもと》なく帰って見ればその人は、極めて無事にこうして眠っているのであります。
そもそもこの人は昨夜、何のためにどこまで行って、いつ帰ったかということが、米友には測り切れない疑問でありました。それよりも眼の見えないはずの人が、目の見える自分を出し抜いて無事に帰っていることが、奇怪千万に思われてなりません。
こいつは偽盲目《にせめくら》じゃないかと、米友はこの時にもまたそう思い出しました。
二十
多分石川島の造船所から乗り出したと思われるバッテーラが、この真暗な中を無提灯で、浜御殿の沖へ乗り出しました。
「どこへおいでなさるんでございます」
艪《ろ》を押していた若い男が尋ねました。
「西洋へ」
と答えたのは、駒井甚三郎の声であります。
「エエ! その西洋へ、こんなちっぽけな船で?」
「これで行くんじゃない、沖へ出ると大きな船がある」
「へえ、いったい、あなた様は、どうしてそんなお心持におなりなさったんです、何の御用で西洋へおいでなさるのでございます」
バッテーラを漕ぎ出したのはこの二人。人足の寄場《よせば》であった石川島。敲《たた》きや追放に処せられたもので、引受人がなくて、放してやるとまた無宿人になってしまいそうなものを、ここに集めて仕事をさせておいたから、おそらくここに駒井甚三郎のためにバッテーラを漕いでいるのは、そのなかの一人と思われます。二人とも同じような陣笠を被《かぶ》って、羅紗《らしゃ》の筒袖の羽織を着ていました。
「吉田
前へ
次へ
全100ページ中96ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング