が、水を得ずして帰るのと同じことであります。
 こうして竜之助は、本多隠岐守の中屋敷の塀の下に立って、河岸に向いて立っておりました。
 竜之助がここに立っているとは知らず、後ろから静かに歩いて来る人があります。それもたった一人で歩いて来ます。提灯も点《つ》けずにこの夜中を一人で歩いて来るのは、不思議に似て不思議にあらず、これはやはり杖をついた按摩《あんま》でありました。笛を吹かないのはこのあたりが、いずれもお屋敷の塀であると知ってのことでしょう。
「もし」
 竜之助がその按摩を呼び留めました。
「はい」
 按摩は驚いたように、ピタリと杖を留めました。
「あの、本所へ参りたいのだが、その道筋は、これをどう参ってよろしいか教えてもらいたい」
「本所へおいでなさるのでございますか、本所はどちらへ」
「弥勒寺橋に近いところまで」
「弥勒寺橋……それならば、両国へおいでなすった方がお得でございましょう、これから少々戻りにはなりますがね」
「その両国へ出ないで、新大橋を渡って行きたいと思うのだが」
「新大橋……左様ならば、これを真直ぐにおいでなさいまし、わたくしもそちらの方へ参りますから、なんなら……」
と言いながら按摩《あんま》は、静かに歩いて竜之助の前を通り過ぎて行きます。
「今、両国に身投げがあったそうでございますね、でも助かったそうでございますよ」
 按摩は自分の気を引き立てるために、わざとこんなことを言って、
「米沢町のお得意へ参りましてな、ついこんなに遅くなってしまいましてな、先方では泊って行けとおっしゃって下すったんですがね、ナーニ夜道は按摩の常だと言って、こうして出て参りましたよ、送って下さるというのを断わりましてな。自慢じゃあございませんが、これが勘《かん》のせいで……わたくしも新大橋を渡って本所へ参るんでございます、これからまだ一軒お寄り申すところがありますから、それへ寄って、本所の二ツ目まで帰るんでございます。按摩ではございますが二ツ目へ帰ります。当節は世の中が物騒でございますから、うっかり夜道はできませんけれど、そこは按摩でございますから……おや、危のうございますよ、ここに水溜りがございますから」
 こう言って按摩が振返った時に、ヒヤリと冷たい風。音もなく下りて来た一刀。
「えッ、目の見えない者を斬ったな!」
 かわいそうに、まだ年の若い按摩でありました
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