《さ》ましたかと思った米友は、案外にも眼を醒ましたのではなく、やはりよく寝ているのであります。
行燈のところで、米友の寝息をうかがうらしい竜之助は、左の親指を刀の鍔《つば》にあてがって立っています。もし米友が狸寝入りをしているものならば、竜之助はこれを斬ってしまうつもりでしょう。幸いにして米友は熟睡しています。足を一本、蒲団の外へはみ出しても知らないくらいによく寝ています。
ほんとに米友がこの場合によく寝ていることは幸いでした。それは米友のために幸いであるのみならず、竜之助のためにも幸いです。いったい、竜之助は米友を米友と知らないでいるように、米友もまた竜之助を竜之助と知らないでいるのであります。おたがいに知らないでいるけれども、米友が竜之助を疑うように、竜之助もまた米友を疑わないわけにはゆきません。話をしているうちに、ちゃんぽんになっていた話が、或るところへ行ってピタリと合うことのあるのが不思議でありました。この前の日に、米友は何か急に思い当ったらしく、竜之助に向って、
「おい、お前は、本当の盲目《めくら》かい、盲目の真似をしているんじゃねえかな」
と言ったことがありました。何のつもりで米友がこう言ったのだか、その時に竜之助は思わずヒヤリとさせられました。米友が竜之助に疑いを懐《いだ》きはじめたのは、蓋《けだ》しこの時からのことであります。けれども、ここで熟睡していたから、その疑いもなんのことはなく、米友が寝像の悪いままでほしいままに寝ていると、行燈に片手をかけていた竜之助も、やや暫く立っていて、やがてまた一足歩き出した途端に行燈の火が消えました。
細目にしてあった行燈の火が消えたことと消えないこととは、竜之助にとっては、大した障《さわ》りではありますまい。それと共に裏の雨戸が一枚、音もなく開きました。竜之助はその極めて僅かの間から外へ出てしまいました。
竜之助が外へ出ると共に、むっくりと蒲団を刎退《はねの》けたのが米友であります。
暗い中から、短気なる米友としては悠々と、壁に立てかけてあった手槍を取って、同じく外へ飛び出しました。
十八
この真夜中過ぎた晩に、両国橋の上を、たった一人で渡って行く女の人があります。女一人で今時分この橋を渡って行くことでさえが、思いもかけないことであるのに、その女の人は長い裲襠《うちかけ》の裳裾《も
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