の筒袖を着て、手に巻尺と分銅《ふんどう》のようなものを持って舳先《へさき》に立っていた人、それがどうも駒井甚三郎殿としか見えないのでござった。手前も一目見ただけで、言葉をかけたわけではなし、しかとしたことは申し上げられんが、今でもあれは駒井甚三郎に相違ないと思うていますな」
「なるほど、バッテーラに乗って、海を測量する、駒井のやりそうな仕事じゃ。ことによるとあの辺に隠れて、何か海軍の仕事をしているのではないか」
「なんにしても、あれが生きておれば結構、あれだけの人材を、今むざむざ葬るのはまことに惜しいものじゃ」
「いったい、駒井が甲州を罷《や》めたのは、神尾主膳との間が面白くないためか、それともほかに何か仔細があってか」
「駒井としては神尾なぞは眼中にあるまい、主膳と勢力争いでもしたように見られては、駒井がかわいそうじゃ」
 旗本の隠居や諸士の間に、駒井の噂がようやく問題になっていたけれど、道庵先生は能登守のことをあまりよく知りませんから、八十文の千住の安煙草入から煙草を出してふかしていました。
 この遠藤良助という旗本の隠居は投網が好きで、上手で、かつ自慢でありました。駒井の噂がいいかげんのところで消えると、それから魚の話にまでうつって行きました。遠藤老人は、人からそそのかされて、得意の投網の話をはじめると、いずれも謹聴しました。
 道庵先生は、そんなことにさまで興を催さないから、思わず大欠伸《おおあくび》をすると遠藤老人は、道庵先生の席を顧みて、
「これはこれは、道庵先生、久しくお見えなさらんな、相変らずお盛んで結構、ちとやって来給え」
「遠藤の御隠居、暫くでございましたな、相変らず投網の御自慢、さいぜんから面白く拝聴しておりますよ、実は拙者もあの方は大好きで、ついお話に聴き惚れて、夢中になって大欠伸をしてしまいましたよ」
「は、は、は、しかしまあお世辞にも先生が、我が党の士であってくれるのは嬉しい」
「ところが、拙者は投網の方はあんまり得手《えて》ではございませんよ、その代り釣りと来たら、御隠居の前だが、おそらく当今では稀人《まれびと》の部でござんしょうな」
「ははあ、先生、釣りをおやんなさるか、ついぞ聞きそれ申したがそれは頼もしいこと」
「君子は釣《ちょう》して網《もう》せずでございますな、いったん釣りの細かいところの趣味を味わった者には、御隠居の前だが、網
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