もらったから、女はそこへ手をついてお礼を言いました。
「これは、どちらへおいでなさる」
「はい、吉原へ用事がありまして、山下から頼んで参りました駕籠が、この始末でございます」
「お送り申して上げたいが、拙者もちと急な用事がある……」
「もう、ついそこでございますから、ひとりで参ります」
「吉原は今、あの通りの騒ぎで、うかと近寄れまいと思われるが、用心しておいでなさい」
「有難うございます、いずれ用事が済み次第、お礼に上ろうと存じますが、あの、お住居《すまい》はどちら様でございましょう」
「ナニ、左様な御心配には及ばない。やあ、また吉原の騒ぎが大きくなったようじゃ」
「何でございましょう、あの騒ぎは」
「歩兵隊が入り込んで、乱暴をはじめたのでござる」
「わたしの知合いの人が、ちょうど、吉原に行っていますものでございますから、気が気ではありません。それではこのままで御免下さいまし」
女がそのまま駈け出すと、暫くして、
「アッ!」
「危ねえ、気をつけやがれ」
またしても闇の中でバッタリと突き当ったものがあって、女はよろよろとしました。さては逃げ去ったと見せた悪い駕籠屋共が、まだその辺に潜《ひそ》んでいるのであろうと、兵馬は、
「どうなされました」
「誰か参りました、今わたしに突き当りました」
「今の駕籠屋共であろう」
「いいえ、別の人のようでございました、あちらからバタバタと駈けて来て、わたしに突き当ると直ぐに姿を見えなくしてしまいました」
「誰か、そこにいるのは誰だ」
兵馬は咎《とが》めてみるけれど、誰も返事をする者がありません。
「隠れているな」
兵馬は進んで行き、
「怪しい奴だ。しかし心配なさらぬがよい、そこまで送ってお上げ申そう」
兵馬は女の先に立ちました。その時、
「うーむ」
と人の唸《うな》る声。
「あれ、人の唸っているような声が」
女は、さすがに気味を悪がって、足を留めました。
「ああ」
兵馬もその唸り声には、驚かされないわけにゆかなかったようです。
「今の悪い奴でございましょう、それとも、あの駕籠屋が、まだそこいらに倒れているのでございましょうか」
「左様ではない、あれは……」
と兵馬は答えて、当惑しました。今、暗い中で唸り出したのは、さいぜん追い飛ばした駕籠屋でもなく、いま出会頭《であいがしら》にお角に突き当った怪しい者でもなく、それとは全
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