がつくめえな。おれが語り聞かした上で、それと合点《がてん》がゆきゃあ、なるほど、百、手前の腕は片一方だが、両腕のあるおれが恐れ入ったものだ、見上げたものだと、ここに初めて兜《かぶと》を脱ぐに違えねえ」
「何を言ってやがるんだ」
「まあまあ、緒《いとぐち》から引き出して話をする。そもそも兄貴とおれとが、甲府のお城のお天守の天辺《てっぺん》でしたあのいたずらから事の筋が引いてるんだ。あの時、二人で提灯をぶらさげて、甲府の町のやつらを噪《さわ》がせて、天狗だとか魔物だとか言わせて、溜飲《りゅういん》を下げてみたけれど、憎らしいのはあの勤番支配の駒井能登守という奴よ、あいつが鉄砲を向けたばっかりにこっちは、すっかり化けの皮を剥がれて、二度とあの悪戯《いたずら》ができなくなったんだ。それも兄貴、あの時に、あの能登守という奴が、打つ気で覘《ねら》いをつけたんなら、兄貴の身体でも、俺らの身体でも微塵《みじん》になって飛ぶはずのところを、ワザと提灯だけを打って落したのが皮肉じゃねえか。あんまり癪《しゃく》にさわるから、その後、なんとかあの能登守に、いたずらをしかけて溜飲を下げてやらなくちゃあ、七兵衛はいざ知らず、がんりき[#「がんりき」に傍点]の沽券《こけん》が下るからと、いろいろ苦心はしてみたけれど、どうも兄貴の前だが、やっぱりあの屋敷には豪勢強い犬がいる、それでうっかり近寄れねえでいたところへ、急にあの能登守がお役替えで江戸詰ということになったと聞いて、手の中の珠を取られたように思った。ところが今夜という今夜、ほんとうに思いがけなく、思う存分にその仕返しができたことを思うと、天道様《てんとうさま》がまだこちとらをお見捨てなさらねえのだ。俺らは甲州から持ち越した溜飲が、初めてグッとさがったんで、嬉しくてたまらねえ。と言って、ひとりよがりをここへ並べて、永く兄貴に擽《くすぐ》ってえ思いをさせるのも罪な話だから、うちあけてしまうが、実は俺らが今ここへ連れて来た女というのは別じゃあねえ、甲府にあって一問題おこした例の、能登守の大切《だいじ》の大切のお部屋様なんだ」
「エエ!」
「どんなもんだ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、いよいよ得意になって社殿の中を尻目にかける。この社殿の中へ、その手柄にかける当の者を運び来って隠して置くものらしくあります。それでがんりき[#「がんりき」に傍点]はなお得意になって、七兵衛をも尻目にかけながら、
「俺らは、ただこうして溜飲を下げさえすりゃそれでいいのだ、なにもこのお部屋様を、煮て喰おうとも焼いて喰おうとも言いはしねえのだ、これから先の料理方は兄貴次第だ、よろしくお頼み申してえものだな」
がんりき[#「がんりき」に傍点]はこんなことを言って、さて猿臂《えんぴ》を伸ばして稲荷の扉の中へ手を入れて、何物をか引き出そうとしました。それは七兵衛にとっても多少の好奇心であり、また心安からぬことでないではありません。この野郎、ほんとうにその女をここへ浚《さら》って来たのかどうか、本来、こういうことを手柄に心得ている人間にしても、あまりに無茶で、乱暴で、殺風景であるから、七兵衛もムッとして苦《にが》い面《かお》をして、がんりき[#「がんりき」に傍点]を睨めていました。
「それこの通りだ」
と言ってがんりき[#「がんりき」に傍点]が、苦い顔をしている七兵衛の眼の前へ突きつけたのは、やや身分の高かるべき女の人の着る一領の裲襠《うちかけ》と、別に何かの包みでありました。幸いにしてそこには、この裲襠を纏《まと》うていた当の人の姿は見えないから、まず安心というものでしょう。
「これがどうしたんだ」
七兵衛はその裲襠と、がんりき[#「がんりき」に傍点]の面《かお》を等分にながめていると、がんりき[#「がんりき」に傍点]は、
「これがその、講釈で聞いた晋《しん》の予譲《よじょう》とやらの出来損ないだ、おれの片腕では、残念ながら正《しょう》のままであの女をどうすることもできねえんだ、時と暇を貸してくれたら、どうにかならねえこともあるめえが、差当って今夜という今夜、あれを正のままで物にするのはむつかしいから、そのあたりにあったこの裲襠と、床の間にあったこの二品、どうやらこれが金目のものらしいから、引浚《ひっさら》って出て来たのだ。ともかくも、これだけの物があれば、これを道具に能登守にいたずらをしてやる筋書は、いくらでも書けようというものだ。この裲襠を見ねえ、地は縮緬《ちりめん》で、模様は松竹梅だか何だか知らねえが、ずいぶん見事なものだ、それでこの通りいい香りがするわい、伽羅《きゃら》とか沈香《じんこう》とかいうやつの香りなんだろう、これを一番、能登守に持って行って狂言の種にして、奴がどんな面をするか、それを見てやりてえものだ。こっちの方の二品は、こりゃ錦の袋入りの守り刀と来ている、もう一つはズッシリとしたこの重味、この二つとも、殿様からの御拝領なんだろう、まだ結び目も解かず、封も切らずにあるやつが、手つかずこっちへ授かったというのも返す返す有難え話だ。さあ、兄貴、俺らの方はこの通りまずまず当座の仕事としては大当りに近い方だが、兄貴の方の仕事はどうなるんだ、まだこれから出かけてみても遅いわけではあるめえから、その舶来の煙硝蔵《えんしょうぐら》とやらへ、俺らもお伴《とも》をしてみてえものだな」
がんりき[#「がんりき」に傍点]はひきつづいて手柄話と盗んで来た品物とを、鼻高々と七兵衛の前へ並べて吹聴《ふいちょう》しているのを七兵衛は、やはり苦々しく聞いていたが、
「なるほど、そいつはかなり気の利いた仕事をしたものだ、けれども、その手前《てめえ》が、甲府から持越しの意趣を晴らしてえという当の相手はどこにいるんだ、甲府で失策《しくじ》った能登守という殿様は、いま江戸にも姿が見えねえのだ、そうして田舎芝居の盲景清《めくらかげきよ》のように、恨《うら》みの衣裳を引張り廻してみたところで、肝腎の頼朝公が不足していたんじゃあ、芝居にもなるめえじゃねえか」
七兵衛はこう言って、がんりき[#「がんりき」に傍点]をばかにしたような面をすると、
「ナーニ、あの女がここにいるからには、大将だってまんざら遠いところにいるでもあるめえ」
「手前は、まだその見当がつかねえのか」
「兄貴、お前はまたそれを知ってるのか」
こんなことを話し合っているうちに、二人の話がハタと止んで、やがて滝の川の方面へ忍んで行くらしくあります。
その翌朝、駒井甚三郎は、例の研究室の前の塀に、ふと妙なものがかかっているのを認めました。皮を剥いだもののように、一枚の裲襠《うちかけ》が塀に張りつけてありました。その上に刀の小柄《こづか》を突き刺して、それに錦の袋に入れた守り刀様のものがぶらさげてありました。
駒井甚三郎がそれを見た時は、まだ夜があけはなれないうちで、誰もその以前に気がついたものはありませんでした。それを一目見ると駒井甚三郎の面《おもて》に、非常な不快な色がサッと流れました。それは裲襠も守り刀も、共に見覚えのある品でありました。篤《とく》と見ているうちにいよいよ不快の色で満たされて、この時はさすがにこの人も、その憤懣《ふんまん》を隠すことができないらしくありました。
けれども、また直ぐに窓掛を下ろして、姿を研究室の奥深く隠してしまいました。駒井甚三郎は再びこの不快な一種の曝《さら》し物に眼を注ぐことはなかったけれど、ほどなくその裲襠と守り刀の袋とは、何者かの手によって取外されて、どこへか隠されてしまいました。
それから程経て、馬を駆《か》ってその普請場から出て行く一個の人影を見ることができました。おそらくそれはその普請場を早朝から巡視に来た役人であったろうけれど、笠を深く被《かぶ》っていたから、誰とも知ることができません。
その人は馬を駆ってやや暫らく行った時に、途中で行会った百姓男を呼び留めて、
「これこれ」
「はい」
「お前は王子の方へ行くと見えるな、気の毒ながらこれを扇屋まで届けてもらいたいものじゃ」
「へえへえ、よろしうございますとも」
頼む人が身分ありげな人であって、頼む言葉も丁寧であったから、頼まれた百姓は恐れ入って承知をしました。幸い、この百姓は扇屋の方へ行くべきついでの百姓でありました。馬上の人が取り出したのは一封の手紙らしくあります。
「ただこの手紙を持って扇屋へ立寄り、名宛の人に渡してもらえばよろしい、名宛の人がおらぬ時は、預けておいてよろしい、返事は要らぬ、これは些少《さしょう》ながらのお礼の印」
「どう致しまして、ほんのついででございますから、こんな物をいただいては済みましねえでございます」
馬上の人はお礼の寸志として、いくらかの金を与えようとしたのを、律義《りちぎ》な百姓は容易に受けようとしませんでした。それを強《し》いて取らせると、百姓は幾度も幾度も繰返してお礼を言い、その手紙を受取り、金の方はいただいていいのだか悪いのだか、まだわからないような面《かお》をしているうちに馬上の人は、
「しからば、確《しか》とお頼み申しましたぞ」
とばかり馬に鞭をくれてサッサと歩ませて行きました。百姓はその後ろ姿を見送って、
「お代官様みたようなエライお方だ、どこのお邸のお方か知らねえけれど」
と言って、その百姓はいま受取った手紙の表を見ると、見事な筆蹟で、
[#ここから1字下げ]
「扇屋にて、宇津木兵馬殿」
[#ここで字下げ終わり]
と記してありました。
扇屋の一間に、お君は兵馬を待っていました。遅くも帰るであろうと待っていた兵馬は、ついに帰りません。
兵馬の身の上にも何か変事はなかったろうかと、それが心配になって、心細いよりは怖ろしさに堪えられないようであります。
昨夜、床に就いて、うとうととしかけたのはかなり夜が更《ふ》け渡った時分でありました。その時に、枕許に人の足音のすることを、確かにお君は気がついていました。
兵馬を待ち兼ねている心持だけで、それに気がついたのではありません、お君は物を用心する女でありました。こうなってみると、自分の身が何物より大切に思われるし、また頼りなくも思われてならないのに、この女は、古市《ふるいち》にあって、撥《ばち》を揚げて旅人の投げ銭を受けることを習わせられた手練が、おのずから心の油断を少なくしていました。ふと眼が醒《さ》めた時に、
「誰じゃ」
誰じゃと咎《とが》めてみた時に、その応答がなくて、何か急に自分の身《からだ》の上へ押しかかるものがあるように思ったから、急いで褥《しとね》を飛び起きて、
「どなたかお出合い下さい、悪者が……」
こう言って叫びを立てると、
「エエ、いめえましい」
と言って、枕を拾ってお君に打ちつけたのは、怪しい頬冠《ほおかぶ》りの男でありました。
「あれ――」
お君はこの場合にも身を避けることを知って、その投げつけた枕を外すと、それが行燈《あんどん》に当ってパッと倒れて、燈火《あかり》が消えて暗となりました。
「どなたぞ、おいで下さい、悪者が……」
この声で扇屋の上下はことごとく眼をさましました。その騒ぎと暗とに紛れて、悪者は疾《と》うにどこへか出て行ってしまって、扇屋の若い者などは空しく力瘤《ちからこぶ》を入れて、その出合わせることの遅かったのを口惜しがりました。幸いにしてお君の身にはなんの怪我もありませんでした。他の客人にも、家の人にも、雇人にも、女中にもなんの怪我もありませんでした。盗難は……盗まれたものは、それを調べてみるとお君は、面の色を変えないわけにはゆきません。
衣桁《いこう》にかけておいた打掛と、それからさきほど兵馬の手を通じて、主君の駒井能登守が手ずから贈られた記念の二品が、確かになくなっているのであります。これはお君にとっては、身にも換えられないほどの大切な品であります。
さりとてここでその品物の名を挙げて、宿の者にまで駒井能登守の名を出したくはありません。兵馬さえいたならば何とでも相談相手になろうものを、昨夜に限って戻って来な
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