を破ってから後も、苦楽を共にした奇異なる武士の南条でありましたから、
「これは南条殿、全く珍らしいところで……どうしてまたこの夜中に、その身なりで」
「それよりも宇津木、君こそこの夜中にどこへ行ったのじゃ」
「ツイそこまで」
「ツイそことは?」
「近いところに知人《しりびと》があって」
「近いところとは?」
「それは、あの……」
「いや、隠すには及ばない、君が今あの火薬の製造所から出て来たところを見かけて、拙者は後をつけて来たのだ」
「エエ! それでは見つかったか。しかし、余人ならぬ貴殿に見つけられたのは心配にならぬ」
「いったい、あの火薬の製造所の秘密室らしい研究所に隠れているのは、あれは誰じゃ」
「南条殿、貴殿はあの人が誰であるかをまだ御存じないのか」
「知らん」
「それほど鋭いお目を持ちながら……とは言え、誰にも知れぬが道理、実は外から出入りする者は、拙者のほかにないのでござる」
「うむ、そうであろう、おれも長らくあの辺にうろついているが、ついぞその人を見たことがない」
「わかってみれば何でもないこと、あれはな、甲府におられた駒井能登守殿じゃ」
「エエ! 駒井甚三郎か、それとは知らなんだ、なるほど、駒井か、駒井ならばあすこに隠れていそうな人だわい、これで万事がよくのみこめる、そうか、そうか」
 南条は幾度も頷《うなず》きました。
「今も能登守殿の話に貴殿の噂が出たところ。貴殿ならば、隠れておられる能登守殿も喜んで会われることと思う」
「会ってみたい、そう聞いては今夜にも会ってみたい」

         五

 権現社頭から帰って来たのは駒井能登守であります。今は能登守でもなければ勤番の支配でもありません。一個の士人としては到底、世の中に立てなくなった日蔭者の甚三郎であります。
 例の滝の川の火薬製造所の秘密室までは無事に帰って来て、真暗な室内の卓子《テーブル》の上を探って、その一端を押すと室内がパッと明るくなりました。
 頭巾《ずきん》を取って椅子に腰を卸《おろ》した能登守を見ると、姿も形もだいぶ前とは変っていることがわかります。まずその髪の毛を、当時異国人のするように散髪にして、真中より少し左へよったところで綺麗《きれい》に分けてありました。それから後ろの襟へかかったところまで長く撫で下ろした髪の末端を、鏝《こて》を当てたものかのように軽く捲き上げていました。身につけているのも筒袖の着物と羽織に、太い洋袴《ズボン》を穿《は》いています。
 この人としてはこういう形をすることもありそうなことだけれど、その当時にあっては、破天荒《はてんこう》なハイカラ姿でありました。この姿をしてうっかり市中を歩いて、例の攘夷党の志士にでも見つかろうものならば、売国奴《ばいこくど》のように罵られて、その長い刀の血祭りに会うことは眼に見えるようなものであります。幸いなことに、この人はここに引籠っているから、この急進的なハイカラ姿を、何者にも見つからないで済むのでありましょう。
 能登守――と言わず、これからは駒井甚三郎と呼ぶ――はいま椅子へ腰を卸すと共に、額に滲《にじ》む汗を拭いて、ホッと息をついて空《むな》しく天井をながめていました。
 この室内の模様は、前に甲府の邸内にあった時と、ほぼ同じような書物と、武器と、それから別に、洋式の機械類と薬品などで充満していました。
 吐息《といき》をついた駒井甚三郎は、やがて両の手を面《かお》に当て、卓子に臂《ひじ》をついて俯向《うつむ》いていました。それからまた身を起し、肱掛《ひじかけ》に片腕を置いてじっと前の卓上をながめている前には、長さ二尺に幅四寸ほどの小形の蒸気船の模型が一つ置いてあります。
 駒井甚三郎は、その蒸気船の模型からしばしも眼は放さずに、手はペンを取って、しきりに角度のようなものを幾つも書いているのであります。この人は、いま出向いて行ったことのために、何か気に鬱屈《うっくつ》があってこうしているのかと思えば、そうではなくて、この小型の蒸気船の模型と、それを見ながら幾つも幾つも線と劃を引張ることに一心不乱であるものらしく見えます。それにようやく打込んでゆくと、急に洋式の算術らしいことを始め、次に日本の算盤《そろばん》を取って幾度か計算を試み、それから細長い形の黒い玉を取っては秤台《はかりだい》の上へ載せ、それを幾つも幾つも繰返して、その度毎に目方を記入しているようでありました。
 この時分、夜はようやく更《ふ》けて行って、水車の万力《まんりき》の音もやんでしまい、空はたいへんに曇って、雨か風かと気遣《きづか》われるような気候になってきたことも、内にあって一心にこれらの計算に耽《ふけ》っている駒井甚三郎には、いっこう感じがないらしくあります。
 風が出たなと思った時分に、駒井甚三郎は、ふと戸の外を叩く物の音のあることに気がつきました。宇津木兵馬がまた訪ねて来たなと思って、甚三郎は立って戸をあけにかかりました。けれどもそれは宇津木兵馬ではなくて、見馴れぬ労働者風の男でありましたから、
「誰じゃ」
 甚三郎は拳銃をさぐって用心しました。
「拙者だ、南条だ」
 駒井甚三郎は、その一言で了解することができました。
 ほどなく駒井甚三郎と南条なにがしという奇異なる労働者と二人は、前の室内で椅子によって対坐することとなりました。
 その以前、やはり不意にこの男が、甲府の駒井能登守の邸を夜中に驚かしたことがあったように。
 その時はそれと知らずして驚かしたものでしたが、今はそれと知って訪ねて来たものらしい。
 能登守の風采《ふうさい》もその時とは変っているが、南条の風采もやや変っています。
「何をしていた」
と駒井甚三郎が尋ねました。
「ここの工事の人足を働いている」
 南条が答えます。
「それは知らなかった」
「こっちも知らなかった」
「どうして拙者がここにいることがわかったか」
「宇津木兵馬から聞いた」
「なるほど――」
 南条は室内を一通り見渡したが、例の小型の蒸気船の模型を認めて、
「これは――」
と言って、特に熱心にその船の形を見つめていました。
「これは拙者が工夫中のカノネール、ボートじゃ、ずいぶん苦心している」
「なるほど」
 南条は面《かお》をつきつけるようにして、その小形の蒸気船の模型を、前後左右からつくづくとながめ入ります。その熱心さが設計者の駒井甚三郎にとっては、何物よりも満足に思うところらしく、
「よく見てくれ、そして批評をしてくれ、長さは二十間で幅は四間になる、船の構造はまず自分ながら申し分はないつもりだ、機関の装置も多少は研究し、速力も巡陽、回天あたりよりも一段とすぐれたものになるつもりじゃ。しかし、いま問題にしているのはそれに載せる大砲よ、なるべく大口径にして、遠距離に達するように苦心している。それと大砲を据《す》え付くる場所じゃ、ここのプーフに装置するのが最もよかろうと思われる、船体の釣合上、大砲が大き過ぎても困る、と言って従来の例を追うのも愚かなこと、火薬と瓦斯《ガス》の抵抗がどのぐらいまで全体の平均に及ぼすか、それを実地に計ってみたいと苦心している」
 駒井甚三郎は、こんなふうに説明しながら、いま秤台《はかりだい》にかけていた細長い形のよい玉を取って、卓子《テーブル》の上から南条の方に突き出しました。
「なるほど」
 南条はその船体を見ることが、いよいよ熱心であります。
「どうも、こうして調べて実地に当って見れば見るほど、我ながら知識の足らないことと経験の浅いことが残念でたまらぬ。だから拙者は思い切って洋行してみようと思っているのじゃ」
 駒井甚三郎がこう言うと、小型の蒸気船の模型を見ていた南条が、急に駒井の面《かお》を見て、
「ナニ、洋行?」
と言いました。
「その決心をしてしもうた」
「それは悪いことではない、君の学問と才力を以て洋行して来れば、それこそ鬼に金棒じゃ」
「書物と又聞《またぎき》では歯痒《はがゆ》くてならぬ、それに彼地《あっち》から渡って来る機械とても、果してそれがほんとうに新式のものであるやらないやらわからぬ、彼地ではもはや時代遅れの機械が日本へ廻って、珍重がられることもずいぶんあるようじゃ、このごろ、少しばかり火薬の製造機械を調べているけれど、思うように感心ができぬ、何を扨置《さてお》いても洋行したい心が募って、じっとしてはおれぬ」
「大いに行くがよい」
「白耳義《ベルギー》のウェッテレンというところに、最良の火薬機械の製造所があるということじゃ、その工場をぜひ見て来たいものだと思うている、しかし、それは他国の者には見せぬということじゃ、やむを得ずんば職工になって……君のように労働者の風《なり》をして、忍んで見て来たいと思うている」
「君は拙者と違って美《よ》い男だから、労働者にするはかわいそうじゃ。しかしそれだけの勇気のあることが頼もしい。そして、いつ出かけるつもりだ」
「来月の半ばに下田を出る仏蘭西《フランス》の船があるから、それに便乗することに頼んでおいた、それでこの通り頭もこしらえてしまっている」
「一人で行くのか」
「従者を一人つれて行く、そのほかには今のところ伴《つれ》というものはない」
「おれも一緒に行きたいな、羨《うらや》ましい心持がするわい」
と南条は笑いました。
「君が一緒に行ってくれれば拙者も甚だ心強いけれど、それが知れたら、それこそ第二の吉田松陰じゃ」
「それでは諦《あきら》めて、君の帰りと土産《みやげ》とを待っていよう。しかし、君が帰って来る時分には、日本の舞台もどう変っているかわからん、君の土産が江戸幕府のものにならないで、或いはそっくり我々が頂戴するようになるかも知れん」
「そんなことはあるまい」
 駒井甚三郎は微笑していました。
 この二人は前に言ったように、高島四郎太夫の門下に学んだ頃からのじっこんでありました。その故に地位だの勢力だのというものは頓着なしに、いつも会えばこうして、友達と同じような話をするのであります。
「思い切りのよいのに感心する、我々は西洋の学問と技術はエライと思うけれど、頭までそうする気にはなれぬ」
と言って南条は、この時はじめてらしく駒井甚三郎の刈り分けた仏蘭西《フランス》式の頭髪をながめました。
「ひと思いにこうしてしまった、洋式の蓮生坊《れんしょうぼう》かな」
 甚三郎は静かに、艶《つや》やかな髪の毛の分け目を額際《ひたいぎわ》から左へ撫でました。
「でも髷《まげ》を切り落す時は、多少は心細い思いがしたろうな」
「なんの……」
「そうだ、駒井君」
 南条はこの時になって、一つの要件を思い当ったらしく、
「君は一人で洋行するそうだけれど、君の周囲に当然起るべきさまざまの故障について、善後の処置が講じてあるのか。一身を避ければ、万事が納まるものと考えているわけでもなかろう」

         六

 南条と別れた宇津木兵馬は、王子の扇屋へ帰って来ました。扇屋の一間には、さきほどから兵馬の帰りを待ち兼ねている人があります。
 いったん尼の姿をしていたお君は、ここへ来ては、やはり艶《あで》やかな髪の毛を片はずしに結うて、綸子《りんず》の着物を着ていました。兵馬は刀をとってその前に坐り、
「まだお寝《やす》みにはなりませんでしたか」
「お前様のお帰りを待っておりました」
「それほどに御執心《ごしゅうしん》ゆえ、よいお返事を聞かせてお上げ申したいが……」
 兵馬の言葉が濁って、その様子が萎《しお》れるのを見たお君の面色《かおいろ》に不安があります。
「残念ながら、もはや、この御縁はお諦《あきら》めなさるよりほかはござらぬ」
と言いながら兵馬は、懐中から袋入りの物と帛紗包《ふくさづつ》みとを取り出して、
「これが、能登守殿より御身へお言葉の代り」
 その品をお君の眼の前へ置きました。その袋入りの物は短刀であり、帛紗包みは金子《きんす》であることが一目見てわかります。
「わたくしは、そのようなものをいただきに上ったのではござりませぬ」
 お君が恨めしそうにその二品をながめていま
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