上にも何か変事はなかったろうかと、それが心配になって、心細いよりは怖ろしさに堪えられないようであります。
 昨夜、床に就いて、うとうととしかけたのはかなり夜が更《ふ》け渡った時分でありました。その時に、枕許に人の足音のすることを、確かにお君は気がついていました。
 兵馬を待ち兼ねている心持だけで、それに気がついたのではありません、お君は物を用心する女でありました。こうなってみると、自分の身が何物より大切に思われるし、また頼りなくも思われてならないのに、この女は、古市《ふるいち》にあって、撥《ばち》を揚げて旅人の投げ銭を受けることを習わせられた手練が、おのずから心の油断を少なくしていました。ふと眼が醒《さ》めた時に、
「誰じゃ」
 誰じゃと咎《とが》めてみた時に、その応答がなくて、何か急に自分の身《からだ》の上へ押しかかるものがあるように思ったから、急いで褥《しとね》を飛び起きて、
「どなたかお出合い下さい、悪者が……」
 こう言って叫びを立てると、
「エエ、いめえましい」
と言って、枕を拾ってお君に打ちつけたのは、怪しい頬冠《ほおかぶ》りの男でありました。
「あれ――」
 お君はこの場合にも身を避けることを知って、その投げつけた枕を外すと、それが行燈《あんどん》に当ってパッと倒れて、燈火《あかり》が消えて暗となりました。
「どなたぞ、おいで下さい、悪者が……」
 この声で扇屋の上下はことごとく眼をさましました。その騒ぎと暗とに紛れて、悪者は疾《と》うにどこへか出て行ってしまって、扇屋の若い者などは空しく力瘤《ちからこぶ》を入れて、その出合わせることの遅かったのを口惜しがりました。幸いにしてお君の身にはなんの怪我もありませんでした。他の客人にも、家の人にも、雇人にも、女中にもなんの怪我もありませんでした。盗難は……盗まれたものは、それを調べてみるとお君は、面の色を変えないわけにはゆきません。
 衣桁《いこう》にかけておいた打掛と、それからさきほど兵馬の手を通じて、主君の駒井能登守が手ずから贈られた記念の二品が、確かになくなっているのであります。これはお君にとっては、身にも換えられないほどの大切な品であります。
 さりとてここでその品物の名を挙げて、宿の者にまで駒井能登守の名を出したくはありません。兵馬さえいたならば何とでも相談相手になろうものを、昨夜に限って戻って来ないことを、残念にも怨みにも、お君は一人でハラハラする胸を押えていました時に、帳場から一封の手紙を届けてきました。その手紙が宇津木兵馬宛になっていることを知って、ともかくも自分が預かることにする。まもなく宇津木兵馬は、一人で立帰って来ました。
 昨夜の出来事を聞いて驚いた上に、さきほど預けられた手紙を渡されてそれを読むと、急いでいずれへか出かけました。
 兵馬の出かけた先は、かの火薬製造所に駒井甚三郎を訪ねんためでありました。いつものところに来ておとのうてみたけれども、もうその人はそこにおりません。誰に尋ねてみることもできず、尋ねてみても知っている人はありません。
 兵馬は空しく先刻の手紙を繰展《くりの》べて読んでみると、簡単に、
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「感ずるところあって、当所を立ち退く、行先は当分誰にも語らず、後事よろしく頼む」
[#ここで字下げ終わり]
というだけの意味であります。
 駒井甚三郎はついにどこへ向けて立去ったか知ることができません。なにゆえに左様に事を急に立去らねばならなくなったのか、推察するに苦しみました。或いはその企てている洋行の機が迫ったために、こうして急に立去ったものかとも思われるが、どうも文面によるとそればかりではないらしく思われる。
 その日のうちに、宇津木兵馬もお君を連れて、扇屋を引払ってしまいました。

         八

 甲府の躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の、神尾主膳の別邸の広い庭の中に盤屈《ばんくつ》している馬場の松の根方に、もう幾日というもの、鉄の鎖で二重にも三重にも結びつけられている一頭の猛犬がありました。
 これは間《あい》の山《やま》のお君にとっては、唯一無二の愛犬であったムク犬であります。影の形に添うように、お君の後ろにもムク犬がなければならなかったのに、それが向岳寺の尼寺から、滝の川の扇屋に至るまで、あとを追った形跡の無いということは寧《むし》ろ不思議であります。
 ムク犬を捕えて離さないのは、この馬場の松の老木と、それに絡《から》まる二重三重の鉄の鎖でありました。
 松の樹の下に繋がれているムク犬には、誰も食物を与えるものがないらしくあります。
 それ故に、さしもの猛犬が、いたく衰えて見えます。真黒い毛が縮れて、骨が立っています。前足を組んで、首を俛《た》れて沈黙しています。
 もうかなり長いこと、ここに繋が
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