あいだ人を欺き、自らを欺いたことの記憶を呼び起してその良心に恥かしくなった、それのみではありません。
ここへ来るとお君のことが思い出され、甲州へ置いて来たお君の面影が、強い力で米友の心を押えてきたから、
「うーむ」
と言って米友は、突立ったなりで歯を食いしばりました。
「うーむ」
今はここへ来て、それがいつもするよりは一層烈しい心持になって、歯を食いしばって唸《うな》ると共に身震いをしました。
「能登守という奴が悪いんだ、あいつがお君を蕩《たら》したから、それであの女があんなことになっちまったんだ、御支配が何だい、殿様が何だい」
米友は、傍《かたわら》へ聞えるほどな声で唸りながら独言《ひとりごと》を言っています。お君のことを思い出した時の米友は、同時に必ず能登守を恨むのであります。何も知らないお君を蕩して玩《もてあそ》びものにしたのは、憎むべき駒井能登守と思うのであります。
大名とか殿様という奴等は、自分の権力や栄耀《えいよう》を肩に着て、いつも若い女の操《みさお》を弄び、いい加減の時分にそれを突き放してしまうものであると、米友は今や信じきっているのであります。その毒手にかかって甘んじて、その玩び物となって誇り顔しているお君の愚かさは、思い出しても腹立たしくなり、蹴倒してやりたいように思うのであります。
こうして米友はお君のことを思い出すと、矢も楯も堪らぬほどに腹立たしくなるが、その腹立ちは、直ぐに能登守の方へ持って行ってぶっかけてしまいます。能登守を憎む心は、すべての大名や殿様という種族の乱行を憎む心に、滔々《とうとう》と流れ込んで行くのであります。そのことを思い返すと米友は、甲府を立つ時に、なぜ駒井能登守を打ち殺して来なかったかと、歯を鳴らしてそれを悔《くや》むのでありました。能登守を打ち殺せば、それでお君の眼を醒《さ》まさせることもできたろうにと思い返して、地団駄《じだんだ》を踏むのでありました。
米友の頭では、今でもお君はさんざんに能登守の玩《もてあそ》び物になって、いい気になっているものとしか思えないのであります。間《あい》の山《やま》時代のことなんぞは口に出すのもいやがって、天晴《あっぱ》れのお部屋様気取りですましていることは、思えば思えば業腹《ごうはら》でたまらないのであります。
短気ではあったけれども、曾《かつ》て僻《ひが》んではいなかった米友の心持が、ようやくじりじりと呪《のろ》われてゆくことは、米友にとって重大なる不幸であると共に、斯様《かよう》な単純な男を一途《いちず》に呪いの道へ走らせることは、その恨みを受けた者にとっては、かなりに危険なことでありました。
米友はそこに突立って唸り、歯がみをして独言《ひとりごと》を言って、通る人を不思議がらせ、ついにその周囲へ一人立ち二人立つような有様になった時に気がついて、
「覚えてやがれ」
歯を食いしばったままで、サッサと人混みを通り抜けて、他目《わきめ》もふらずに両国橋を渡って行く挙動は、おかしいというよりは、確かにものすさまじい挙動でありました。
「何だあいつは」
通りすがる人が、みな振返って米友の後ろを見送るほどに、穏かならぬ歩きぶりであります。
十一
両国橋を渡りきった米友は、回向院《えこういん》に突き当って右へ廻って竪川通《たてかわどお》りへ出ました。それからいくらもない相生町の河岸《かし》を二丁目の所、例の箱惣の家の前まで来て見ると、どうやらその頃とは様子が変っているようであります。
あの時は祟《たた》りがあるの、お化けが出るのと言って誰も住人《すみて》の無かったものが、今は立派に人が住んでいるらしくあります。それも商人向きの造作が直されて、誰か然るべき身分の者の別邸かなにかのような住居になっていました。そのほかには、あんまり変ったこともないから米友は、その家の前を素通りをして行ってしまおうとすると、
「あ、おじさんが来たよ、槍の上手なおじさんが来たよ」
バラバラと米友の周囲《まわり》に集《たか》って来たのは、河岸に遊んでいた子供連であります。これは米友がここに留守居をしていた時分の馴染《なじみ》の子供連であります。留守番をしている時分には、米友の周囲がこれらの子供連の倶楽部《くらぶ》になったものであります。子供連は思いがけなくも米友の姿をここに見出したものだから、ワイワイと集まって来て、
「おじさん、槍の上手なおじさん、どこへ行ったの」
「うむ、俺《おい》らは旅をして来たんだ」
「ずいぶん長かったね、ナゼもっと早く帰らなかったの」
「向うで忙がしかったんだ」
「もう御用が済んだのかい、またおじさん遊ぼうよ」
「うむ」
「おじさんがいる時分にはね、みんなしてこの家の中へ入って遊んだんだけれど、今は誰も入れな
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