議に思いました。米友の不思議に思ったのはそれだけではなく、この話の最中に、いつも道庵が両手を上げないでいる恰好が変であることから、よくよくその手許を見ると、錠前がかかって金の輪がはめてあるらしいから、ますますそれを訝《いぶか》って、
「先生、その手はそりゃいったい、どうしたわけなんだ」
と尋ねました。
「これか」
道庵は、手錠のはめられた手を高く差し上げて米友に示し、待っていましたとばかりに、舌なめずりをして、
「まあ米友、聴いてくれ」
と前置をして、それから馬鹿囃子と水鉄砲のことまで滔々《とうとう》と、米友に向って喋《しゃべ》ってしまいました。
これは道庵としては確かに失策でありました。こういうことを生地《きじ》のままで語って聞かすには、確かに相手が悪いのであります。米友のような単純な男を前に置いて、こういう煽動的な出来事を語って聞かすということは、よほど考えねばならぬことであったに拘《かかわ》らず、道庵は調子に乗って、かえってその出来事を色をつけたり艶《つや》をつけたりして面白半分に説き立てて、自分はそれがために手錠三十日の刑に処せられたに拘らず、鰡八の方は何のお咎《とが》めもなく大得意で威張っている、癪にさわってたまらねえというようなことを言って聞かせて、気の短い米友の心に追々と波を立たせて行きました。
「ばかにしてやがら」
米友がこういって憤慨した面《かお》つきがおかしいといって、道庵はいい気になってまた焚きつけました、
「全くばかにしてる、おれは貧乏人の味方で、早く言えば今の世の佐倉宗五郎だ、その佐倉宗五郎がこの通り手錠をはめられて、鰡公《ぼらこう》なんぞは大手を振って歩いていやがる、こうなっちゃこの世の中は闇だ」
道庵先生の宗五郎気取りもかなりいい気なものであったけれども、とにかく、一応の理窟を聞いてみたり、また米友は尾上山《おべやま》の隠ケ岡で命を拾われて以来、少なくともこの人を大仁者の一人として推服しているのだから、いくら金持だといっても、国のためになる人だからといっても、ドシドシ人の住居《すまい》を買いつぶして妾宅を取拡げるなどということを聞くと、その傍若無人《ぼうじゃくぶじん》を憎まないわけにはゆかないのであります。
その翌日、米友は道庵先生の家の屋根の上の櫓《やぐら》へ上って見ました。なるほど、話に聞いた通り、道庵の屋敷の後ろと左右とは、目を驚かすばかり新築の家と庭とで囲まれていました。何の恨みあってのことか知らないが、これでは先生が癇癪《かんしゃく》を起すのももっともだと、米友にも頷《うなず》かれたのであります。
鰡八というのはいったい何者であろうと米友は、その御殿の方を睨みつけましたけれど、その時は雨戸を締めきってありました。これはあの時の騒ぎから、ともかく道庵を手錠町内預けまでにしてしまったのだから、鰡八の方でも寝醒《ねざめ》が悪く、多少謹慎しているものと思われます。
米友には、敢《あえ》て金持だからといって特にそれを悪《にく》むようなことはありません。また身分の高い人だからといって、それを怖れるようなこともありません。恩も恨みもない鰡八だけれど、わが恩人である道庵を虐待して、手錠にまでしてしまった鰡八と思えば、無暗ににくらしくなってたまりませんでした。
道庵が鰡八に楯をつくのは、それはほんとうに業腹《ごうはら》でやっているのだか、または面白半分でやっているのだかわからないのであります。ことに米友をけしかけたことなどは、たしかに面白半分というよりも、面白八分でやったことに相違ないのを、米友に至るとそれをそのままに受取って、憎み出した時はほんとうに憎むのだから困ります。
そうして鰡八という奴の面《つら》は、どんな面をしているか、一目なりとも見てやりたいものだと余念なく櫓の上に立っていると、どうした機会《はずみ》か、今まで締めきってあった雨戸がサラリとあきました。
米友は、ハッと思ってその戸のあいたところを見ました。米友が心で願っている鰡八が、或いは幸いにそこへ面《かお》を出したものではないかと思いました。しかし、それは間違いであって、戸をあけたのは十五六になろうという可愛い小間使風の女の子でありました。
「おや」
その女の子は、戸をあける途端に道庵の家の屋根を見て、その櫓の上に立っている米友に眼がつきました。米友が例の眼を丸くしてそこに立ち尽しているのを見た女の子は、吃驚《びっくり》して少しばかりたじろぎました。
それから、少しばかり引き開けた戸の蔭に隠れるようにして、再び篤《とく》と米友の面《かお》をながめていましたが、
「オホホホホ」
と遽《にわ》かに笑い出しました。それは小娘が物におかしがる笑い方で、ついにはおかしさに堪えられず腹を抱えて、
「ちょいと、お徳さん、来てごら
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