繁みから音無川の谷の中へ下りて見たところが、そこに忍び返しをつけた塀があります。
「こいつはいけねえ」
 七兵衛はその下を潜ろうか、上を乗り越えようかと思案したけれど、それは咄嗟《とっさ》の場合、さすがの七兵衛も、どうしていいかわからぬくらいの邪魔物でありました。
「ちょッ」
 仕方がないからわざわざ岸へ上って、家のまわりを、遠くから一廻りして表へ出て見ました。
 こうして前後を見廻したけれど、いま庭で立消えになったがんりき[#「がんりき」に傍点]の姿は、いずれにも認めることができません。
「野郎、まだ中に隠れているな、おれがあとをつけたことを感づいたもんだから、この屋敷の中で立往生をしていやがる、それともほかに抜け道をこしらえておいたものか、それにしては手廻しがよすぎるが、どうしてもあの裏手よりほかに逃げ道はねえはずなんだが……ハテ」
 七兵衛は、また裏の方へ廻って見ました。そこでもまた再びその影も形も認めることができないから、ともかくも中へ入ってみようとする気になったらしく、そっとその木戸を押してみると、雑作《ぞうさ》なく開いた途端に、
「泥棒、泥棒、泥棒」

 泥棒、泥棒と騒ぎ立てられた時分には、七兵衛もがんりき[#「がんりき」に傍点]も、さいぜんの権現の稲荷の社前へ来ていました。
「兄貴、細工は流々《りゅうりゅう》、この通りだ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は社前のところへ腰をかけて自慢そうに鼻うごめかすと、七兵衛も同じように腰をかけて苦笑い。
「いったい、そりゃ何の真似だ」
「何の真似だと言ったって兄貴、お前と俺《おい》らが甲府でやり損なった仕返しが、どうやらここでできたというもんだ、自分ながら思い設けぬ手柄だ、兄貴の前だけれども、こういうことはおれでなくってはできねえ芸当なんだ。そもそもここへ連れて来た女というのを、兄貴、お前はいったい誰だと思うんだ、お前のその皮肉な笑い方を見ると、またおれが女中部屋の寝像《ねぞう》に現《うつつ》を抜かして、ついこんな性悪《しょうわる》をやらかしたように安く見ていなさるようだが、憚《はばか》りながらそんな玉じゃねえんだ。もっとも、おれもはじめからその見込みで入ったわけではなし、兄貴の差図で入ったのだから、手柄の半分はお前の方へ譲ってもいいようなものだが、兄貴だって、この代物《しろもの》がこの通りということはまだお気
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