というのは、お君が自分でわからないのみならず、兵馬はなお分っていないのであります。慢心和尚から頼まれて引受けて来た時もわかってはいない、苦心を重ねてようやく能登守を尋ね当ててそれを計ってみると、いよいよわからなくなりました。
能登守の立場を見れば、それにお君を会わせて自分が帰ってしまうことはどうしてもできないことであります。そうかと言ってまた甲州へ連れて戻るわけにはゆかず……結局、どうすればよいのだか兵馬は、迷いに迷ってしまいました。
迷いに迷った揚句《あげく》に、兵馬が思い起したのは、道庵先生のことであります。この人へ真面目《まじめ》に相談をかけることは、張合いのないようなことだけれど、お君という人を暫らく保護してもらうことは、或いは頼みにならないことでもないと思いました。兵馬はここでともかくも、道庵へ行って相談しようとする心をきめました。
その翌日、兵馬が道庵を訪れようと用意しているところへ案内があって、一人の立派な武士が兵馬を訪ねて来たということであります。
「はて、誰だろう」
兵馬はここへ自分を訪ねて来る立派な武士があろうとは、予期していないことでありましたが、迎えて見ると、それは南条であります。
なるほど、今日ここへ訪ねて来るように言っていたが、前夜の労働者風の姿のみ頭に残っていたから、今こうして立派な武装をしてやって来られると、頓《とみ》にはそれと気がつかなかったのであります。
南条は頓着なく兵馬のいる一間へ打通って、
「いや、おかげさまで駒井とゆっくり話をすることができて面白かった。駒井は近いうち洋行をするそうじゃ。それは結構なことだ、あの男の学問と器量とを以て洋行して来れば、鬼に金棒というものだと賞《ほ》めてやった」
かく言って遠慮なく、駒井能登守のことを話されるのは兵馬にとっては苦痛であります。兵馬にとっては苦痛でないけれど、一間を隔ててお君の耳へそれを入れることが心配になるのです。
南条もそれを呑込んだか知らん、
「君、ちょっと外へ出ないか、滝の川へ紅葉《もみじ》を見に行こう」
南条それがしと宇津木兵馬とは、相携えて扇屋を出ました。
兵馬は、南条が自分をどこへ導いて行くのだか知りません。紅葉というのは出鱈目《でたらめ》で、王子から江戸の市中へ出るらしいのであります。時は夕暮で道は淋しい。
この途中、二人は、いろいろのことを
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