あまり集まらないのであります。
 今まで十八文で売っていた道庵先生、長者町といえば酔っぱらいの道庵先生と受取られるほどの名物であった先生が、鰡八大尽《ぼらはちだいじん》の妾宅が出来てからというものは、その名物の株を奪われそうになったのであります。道庵先生が憤慨するのも道理がないわけではありません。鰡八大尽の方とても、ことさらに道庵先生の隣を選んで普請をはじめたわけではなかろうけれど、偶然にそうなったことがおかしなものでありました。ことに門が崩れ、塀が破れ、家が傾いた先生の屋敷の地境《じざかい》へ持って行って、宮殿を見るような大きな建築が湧き出し、その楼上で朝野の名流だの、絶世の美人だのが豪華を極めるところを、道庵先生が、縁側で薬草などを乾かしながら見上げている心持は、どんなものでありましょう。
「いまに見ていやがれ、鰡八の野郎、ヒデエ目に逢わしてやるから」
 道庵先生は、こんなわけで、このごろはプンプン怒っているのでありました。
 鰡八大尽の方では、こんなわけで、道庵先生を敵に持ったことはいっこう知りませんでした。大尽がその高楼の上から、先生の屋敷と庭とを一眼に見下ろして、
「汚い家だな、何とかして早く買いつぶしてしまえ」
と言って不快な面《かお》をしていました。それで三太夫が人を介して、内々買いつぶしの相談に当らせてみようとすると、あれは有名な変人だから、そんな話を持ち込もうものなら、かえって飛んだ事壊《ことこわ》しになります。まあもう少し時機をお見合せなさいましということであったから、大尽にはそのことを言わないで置いてありましたけれども、ここに鰡八大尽と道庵先生とが、表向いて相争わなければならない事情が出来たのは、ぜひないことと申すより外はありません。
 それは鰡八大尽が、ある夜、この妾宅の楼上へ泊り込んだ時に、不意に食あたりに苦しめられて、上を下へと騒がせたことがありました。大尽は非常に苦しみました。いかに大尽の力を以てしても、雇人たちの追従《ついしょう》を以てしても、病気ばかりは医者の手を借らなければならないのであります。その医者とても、この場合においては、遠くの名医博士よりも、近くの十八文を有難く思わねばならないのでありました。そこで家の子郎党たちは、取るものも取り敢えずに道庵先生の門を叩きました。
 この時に、道庵先生の門を叩いた家の子郎党たちが心得のあ
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