に、縁の上からヒラリと庭へ飛び下りましたから、
「神尾殿、お危のうござる」
皆が留めたけれども、主膳は留まりませんでした。りゅうりゅうとその槍をしごいて、いま身震いして立ち迷うているムク犬の前に、風を切ってその槍を突き出しました。
神尾主膳といえども武術には、また一通りの手腕のあるものであります。怒りに乗じて突き出す槍が、かなり鋭いものであることは申すまでもありません。
ムク犬は後ろへ退《しさ》ってその槍の鉾先《ほこさき》を避けました。勢い込んだ神尾主膳は、逃《のが》さじとそれを突っかけます。
酒の勢いを仮《か》る主膳の勇気は、一座のお客を歎賞せしめるより、寧《むし》ろその無謀に驚かせました。しかし、主人がこうして出たのに、客も黙って引込んではいられないのであります。ぜひなく刀を押取って主膳の後ろ、或いはその左右から応援に出かけました。錆槍《さびやり》を借りて横合より突っかける者もありました。
ムクが主膳の槍先を避けたのは、或いはこの家の主人に遠慮をして避けたのかも知れません。好んで人に喰いつくものでないことを示すために、最初しかるべき逃げ場を求めていたのかも知れません。しかし、こうなってみてはムクとして、自分の生存のためにも立って戦わなければなりません。その相手の武士であると犬殺しであるとに論なく、牙《きば》に当る限りは噛み散らし、顋《あご》に触るる限りは噛み砕いても、この場を逃れるよりほかはないのであります。
いま猛然と突き出した神尾主膳の槍を、ムク犬はスウッと潜《くぐ》りました。その首には前のように鉄の鎖と麻縄とをひいたままで、槍の上からムク犬は、一足飛びに神尾主膳の頭の上まで飛びました。
「小癪《こしゃく》な!」
主膳は槍を手許につめて、身を沈ませて上から飛びかかるムク犬を、下から突き立てようとしました。その隙《すき》を与えることなく、ムク犬はガブリと神尾主膳の左の肩先へ食いつきました。
「呀《あ》ッ」
神尾は槍を持ったまま後ろへ倒れるのを、それッと言って応援の者が、ムク犬に槍を突っかけました。ムクは転じてその槍をまた乗り越えました。ムク犬は単に勇猛なる犬であったのみならず、女軽業の一座に仕込まれたために、比類なき身の軽さを持っていました。そうしてヒラリ、ヒラリと人の頭の上を飛ぶことは、多くの敵手を悩ますことにおいて有利な戦法であります。
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