ふる》って、出来得る限りの巧妙と迅速とを尽して、生きながら犬の皮をクルクルと剥いてしまって、それでなお、いくらかの生命を保たせ得るかどうかというのがその試験の眼目であります。
 むつかしいのは皮を剥くそのことでなく、皮を剥くまでの間、生きた犬をどうしてじっとさせて置くかでありました。二人の犬殺しの苦心もまたそこにあって、いろいろに犬を手懐《てなず》けようとしたのもそれがためでありました。しかし、見込み通り二人の犬殺しに懐《なつ》くかどうかは、犬を扱い慣れたこの犬殺しどもにもまだ自信がありません。与える食物は取らないけれど、その温順であるらしいことが、いくらかの心恃《こころだの》みにはなっていただけであります。こうして首へ縄をかけて松の枝へつるし、四本の足へも縄をつけて四方へ張っておいて、身動きのできないようにしておいて、それから仕事にかかるというのが順序であって、それはほぼ見当がついているのであります。
 神尾の招いた多くの人は、その当日の定刻に続々と詰めかけて来ました。広間の中や縁のあたりに居溢《いこぼ》れて、みんなの眼は松の木の下の真黒い動物に注《そそ》がれています。なかには立って行って、わざわざその動物の委細を検分しているものもありました。
「ありゃ、元の支配の邸にいた犬ではござらぬか」
「うむ」
 こう言ってムク犬を評していたものもありましたけれど、元の支配ということだけすらが、この席では禁句でもあるかのように、
「うむ」
と言って噛み殺すように頷《うなず》いたばかりで、駒井とか能登守とも言うものはありませんでした。ましてお君とか米友とかいうものの名は、誰の口にも上るではありません。
 ここで験《ため》し物《もの》になるべき犬に対しても、多少の同情を持ったものがこのなかに無いとは申されません。しかし、集まっているものはみな武士《さむらい》でありました。切捨御免を許されている武士たちでありました。これらの人は時としては人命をも刀の試しに供して、それをあたりまえだと信じている人であり、また時としては左様な残忍な行いもしてみなければ、武士の胆力が据《すわ》らぬと考えているようなものもありましたから、日頃は善良と言われている人でも、残忍な遊戯の前に目をつぶらないことが武士の嗜《たしな》みの一つだと考えもし、人にも奨励するような習慣もある。いわんや生きた人命でなく、た
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