ります。和尚は真面目でありました。
「それじゃによって、尼寺でも始末に困る、あの寺でお産をさせるわけにはゆかない、よってどこぞへ預けるところはないかと、わしがところへ相談に来た、そこで、わしが思い当ったことは、この八幡村の江曾原に小泉という家がある、そこへその女を連れて行って預けるのだが……」
と言われて兵馬は奇異なる思いをしました。八幡村の小泉は、もとの自分の縁家《えんか》である。ここへ来る時も思い出のかかった家である。今その家の名をこの和尚の口から聞き、しかも身重の女を守護してその家を訪ねよと請《こ》わるることは、兵馬にとって奇異なる思いをせずにはいられないのであります。
「小泉の主人が、いつぞやわしのところへ来て、和尚様、悪い女のために戒名《かいみょう》を一つ附けてやって下さいというから、わしは、よしよし、悪い女ならば悪女大姉《あくじょだいし》とつけてやろうと言うたら、有難うございます、そんなら悪女大姉とつけていただきますと言って帰った、その悪女大姉の家へ、また悪女を一人送り込むというのも因縁《いんねん》じゃ。この役はほかの者ではつとまらぬ、お前さんでなくてはつとまらぬ」
兵馬は、いよいよ奇異なる思いをして、とかくの返事に迷いましたけれど、思い切って承知をしました。
「よろしうございます、たしかにお引受け致します」
「有難い。では、夜分になって、八幡まではそんなに遠くもないところだから、宵《よい》の口に行って戻るがよい。しかし、聞くところによるとその女はなかなか曰《いわ》くつきの女で、おまけに別嬪《べっぴん》さんだそうだから、甲府あたりから狼が二三匹ついているということだから、その辺はお前さんもよく気をつけてな」
と念を押しました。
兵馬が委細を承って、やはり例の僧形《そうぎょう》で、恵林寺から向岳寺へ向って行ったのは、その日の宵の口であります。
まもなく一挺の駕籠《かご》が向岳寺から出て、僧形の宇津木兵馬はその駕籠に附添うて寺の門を出て行くのを見ました。
宇津木兵馬はその駕籠を守って、差出《さしで》の磯《いそ》にさしかかります。
ここへ来た時分には、月が皎々《こうこう》と上っていました。
差出の磯の亀甲橋《きっこうばし》というのはかなりに長い橋であります。下を流れるのは笛吹川であります。行手には亀甲岩が高く聳《そび》えて、その下は松原続きであります。
なるほど、耳を澄ますと、どこかで千鳥が鳴くような心持がします。亀甲橋へ渡りかかった時に、
「右や左のお旦那様」
兵馬はその声を聞流しにする。駕籠屋も無論そんな者には取合わないで行くと、
「右や左のお旦那様」
また一人、菰《こも》をかぶって橋の欄干《らんかん》の下から物哀れな声を出しました。兵馬も駕籠舁《かごかき》もそんな者にはいよいよ取合わないでいるうちに、またしても、
「右や左のお旦那様」
橋の両側に菰をかぶったのが幾人もいて、通りかかる兵馬の一行を見てしきりに物哀れな声を出す。
「もうし、たよりの無い者でござりまする、もうし、もうし」
菰を刎《は》ね退けて一人が、駕籠の前へ立ちふさがった体《てい》は、尋常とは見られません。
兵馬は、手に突いていた金剛杖を、ズッと立ち塞がる怪しいお菰《こも》の前へ突き出しました。
それが合図となったのか、今まで前後に菰を被っていたのが、一時に刎《は》ね起きました。
「何をする」
兵馬はその金剛杖を振り上げました。
「その駕籠をこちらへ渡せ」
菰を刎ねのけたのを見れば、それは乞食体の者ではありません。それぞれ用心して来たらしい仲間体《ちゅうげんてい》のものでありました。
委細を知らない兵馬は、和尚が自分を選んで附けたのは、こんな場合のことであるなと思ったから、
「エイ」
と言って金剛杖で、先に進んだ一人を苦もなく打ち倒しました。
「この坊主」
兵馬の手並を知ってか知らないでか、怪しの悪者はバラバラと組みついて来ました。
「エイ、無礼な奴」
兵馬は身をかわして、組みついて来るのを発矢発矢《はっしはっし》と左右へ打ち倒しました。それは兵馬の働きとして敢て苦しいことではなく、彼等を打つことは、大地を打つのと同じことに、それをかわすのは、縄飛びの遊びをするのと大して変ったことはありません。
驚いて逃げ足をした駕籠舁《かごかき》も、兵馬の手並に心強く、息杖《いきづえ》を振《ふる》って加勢するくらいになったから、悪者どもは命からがら逃げ出し、或いは橋の下の河原へ落ちて、這々《ほうほう》の体《てい》で逃げ散ってしまいました。
それから兵馬は、駕籠の先に立って行手の方をうかがうと、その時分に向うから、また橋を渡って来る人影のあることを認めました。
駕籠屋を励まして長蛇のような亀甲橋を渡り切ろうとすると、左は高い岩で、右は松原から差出の磯の河原につづくのであります。月は中空に円く澄んでいました。向うから歩いて来るのは僅かに一個《ひとつ》だけの人影であります。
「少々……物をお尋ね申したいが」
笠を深く被《かぶ》って両刀を差して、袴《はかま》を着けて足を固めたまだ若い侍体《さむらいてい》の人、おそらく兵馬より若かろうと思われるほどの形でもあり、姿でもあり、またその声は、女かと思われるほどに優しい響きを持っておりました。
「はい」
兵馬はたちどまりました。駕籠はこころもち足を緩めただけで進んで行きました。
「あの、七里村の恵林寺と申すのはいずれでござりましょうな」
「恵林寺は、これを真直ぐに進んで行き、塩山駅へ出で、再び尋ねてみられるがよい、大きな寺ゆえ、直ぐに知れ申す」
「それは忝《かたじけ》のうござる」
若い侍は一礼して通り過ぎました。兵馬はその声が、なんとなく覚えのあるような声だと耳に留まったけれど、自分は近頃、あの年ばえの友達を持った覚えがありません。
「雲水様」
駕籠屋が兵馬を呼びかけました。
「何だ」
「今のあの旅の若いお侍は、ありゃ何だとお思いなさる」
「何でもなかろう、やはり旅の若い侍」
「ところが違いますね」
「何が違う」
「何が違うと言ったって雲水様、こちとらは商売柄でござんすから、その足どりを一目見れば見当がつくんでございます」
「うむ、何と見当をつけた」
「左様でござんすねえ、ありゃ女でござんすぜ、雲水様」
「女だ?」
「左様でございますよ、男の姿をしているけれども、あの足つきはありゃ男じゃあございません、たしかに女が男の姿をして逃げ出したものでございますねえ」
「なるほど」
「当人はすっかり化《ば》けたつもりでも、見る奴が見れば、一眼でそれと見破られちまうんでござんす。これから大方、江戸表へでも落ちようというんでございましょうが、道中筋で飛んでもねえ目に会わされるのは鏡にかけて見るようだ」
「なるほど」
兵馬は、さすがに駕籠屋が商売柄で、物を見ることの早いのに感心をし、そう言われてみると言葉の端々《はしばし》にも、男とは思われないようなものがあることを思い出して、長蛇のような亀甲橋を振返って、その後ろ姿を見送ります。
兵馬はその後ろ姿を見送って、異様な心を起しました。
橋を渡り終って松原へかかると、駕籠屋はまた不意に悸《ぎょっ》としました。
松林の中で焚火をしている者があります。焚火の炎が見えないほどに、幾人かの人が焚火の周囲《まわり》に群がっていて、それが今まで一言も物を言わなかったというのは、まさしく人を待ち構えているものと見なさなければなりません。それですから駕籠屋は、ギョッとして立ち竦《すく》みました。
しかし、宇津木兵馬はそのことあるのを前から感づいて、
「構わず、ズンズン遣《や》ってくれ」
と駕籠屋を促《うなが》しました。
「おい、その駕籠、待ってくれ」
果して焚火の周囲から声がかかります。
「構わずやれ」
兵馬は小さな声で、またも駕籠屋を促しました。
「おい、待たねえか」
「何用じゃ」
「その駕籠の主は何の誰だか、名乗って通って貰いてえ」
「無礼千万、其方《そのほう》たちに名乗るべき筋はない」
「そっちで名乗るがいやならこっちから名乗って聞かせようか、その駕籠の中身は女であろう」
「女であろうと男であろうと、其方どもの知ったことではない。駕籠屋、早くやれ」
「おっと、おっと、ただは通さねえ、ほかでもねえが、その女をこっちへ温和《おとな》しく返してもらわなければ、お前たちにちっと痛い目を見せるんだ。向岳寺の尼寺から送り出して行く先はどこだか知らねえが、ここへかかると網を張って、附いて来た坊主の手並がどのくらいのものやら、さっき向うの橋の袂《たもと》でちょっと小手調べをやらせたが、あれがこっちの本芸だと思うと大間違い。さあさあ、痛い目をしないうちに、早く渡したり、渡したり」
「憎《にっく》い奴等」
兵馬は金剛杖を握り締めると、彼等はバラバラと焚火の傍から走り出して、兵馬を取囲みました。兵馬は金剛杖を揮《ふる》って、駕籠をめがけて来る曲者《くせもの》を発矢《はっし》と打ち、つづいてかかる悪者の眉間《みけん》を突いて突き倒し、返す金剛杖で縦横に打ち払いました。
この悪者どもは、たしかこのあたりに住む博徒の群れか、或いは渡り仲間《ちゅうげん》の質《たち》のよくない者共と思われます。
兵馬は、やはりそれらを相手にすることに、さして苦しみはありませんでした。片手に打振る金剛杖で思うままに彼等を打ち倒し、突き倒すことは寧ろ面白いほどでありました。
けれども、本文通り……敵は大勢であって、これをいつまでも相手に争うていることは、兵馬の本意ではありません。兵馬は彼等を相手にしているうちに、駕籠だけは前へ進ませようとします。
悪者どもは、兵馬よりは駕籠をめざしているものと見えました。駕籠を守る兵馬は一人、それをやらじとする悪者は、松林の中から続々と湧いて来るようであります。
しかし、多勢もまた兵馬の敵ではなく、その神変不思議な一本の金剛杖で支えられて、近寄ることができないで、離れてしきりに噪《さわ》いでいました。
兵馬とても、彼等を近寄らせないことはなんの雑作もないけれども、さりとて、遠巻きのようになっているところを、どこへどう斬り抜けてよいのだか、その見当はついていないのであります。駕籠屋は駕籠を担《かつ》いだままで、ウロウロするばかり、逃げ出す勇気もありません。
「やい、しっかりやれ、敵はたった一人の痩坊主《やせぼうず》だ」
親方らしいのが、棒を揮《ふる》って飛び出すと、それに励まされて丸くなった五六人が、兵馬を目蒐《めが》けて突貫して来ました。
兵馬はよく見澄まして例の金剛杖で、バタバタと左右へ打ち倒す時に、不意に松葉の中から風を切って一筋の矢が、兵馬へ向いて飛んで来ました。
危ないこと。しかし兵馬の金剛杖は、その思いがけない一筋の矢を、一髪《いっぱつ》の間《かん》に打ち落すことができました。
「この坊主は拙者が引受けるから、早く駕籠を片づけろ」
同じく松林の中から、覆面した袴《はかま》の二人の姿が現われました。これは今までのと違って両刀、それに袴、まさしく武士のはしくれであります。それと同時に、
「それ担《かつ》げ、わっしょ、わっしょ」
無頼者《ならずもの》の一隊は、早くも駕籠を奪ってそのままに、神輿《みこし》を担ぐように大勢して舁《かつ》ぎ上げたようです。
兵馬がハッとする時に、左の覆面が切り込みました。
兵馬は金剛杖でそれを横に払いました。その瞬間に、右の覆面が斬り込んで来ました。兵馬は後ろに飛び退いて小手を払いました。
兵馬に小手を打たれてその覆面は太刀《たち》を取落したその隙に、兵馬は飛び越えて駕籠を奪い返すべく走《は》せ出すと、続いて二人の覆面はやらじと追いかけます。
兵馬は金剛杖を打ち振り打ち振り後ろの敵に備えながら、只走《ひたばし》りに駕籠を追いかけると、かなたの松原でワーッという人声であります。駕籠も人も見えないで、その人声がひときわ高く揚りました。兵馬は気が気ではありません。
飛んで来て見ると、橋の袂の
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