か」
「いまさら、そのような御念を」
「八幡村の小泉家――そこへ、拙者も、お前も、今まで世話になっていたのか」
「それがどうかなさいましたか」
「小泉の主人というのは、拙者の身の上も、お前の身の上もみんな承知で世話をしているのか」
「いいえ、わたしの身の上は知っておりますけれど、あなたのことは少しも」
「それと知らずにこうして、隠して置いてくれるのか」
「左様でございます」
「お銀どの、そなたの家は甲州でも聞えた大家であるそうじゃ」
「改めて左様なことをお聞きになりますのは?」
「お前はここからその実家《うち》へ帰ってくれ」
「まあ、何をおっしゃいます」
「小泉の主人に頼んで、実家へ詫《わ》びをして帰るがよい、今のうちに」
「わたしに帰れとおっしゃるのでございますか、わたし一人を有野村へ帰してしまおうとなさるのでございますか」
「生命《いのち》が惜しいと思うならば、一刻も早く帰るがよい、もし生命が惜しくないならば……それにしても帰るがよい」
「何のことやらさっぱりわかりませぬ」
「わからないうちに帰るがよい、危ないことじゃ、これから先へ行くと、お前も悪女になる」
「悪女とは?」
「悪女大姉、二十一、酉《とり》の女がいま思い当ったよ」
「あなたのお言葉が、いよいよわたしにはわからなくなりました」
「わかるまい、悪女大姉、二十一、酉の女というのは、拙者にも今までわからなかった」
「あれはどうしたわけなのでございます」
「あれはな」
「はい」
「あれは、人に殺された女よ」
「かわいそうに。そうしてどんな悪いことをしましたの」
「お前がしたような悪いことをした」
「妾《わたし》がしたような悪いこととは?」
「男の魂を取って、それを自分のものにしようとしたからだ」
「妾はそんなことは致しませぬ」
「いまに思い知る時が来る」
 竜之助が石塔の頭へ手をかけて立ち上った時に、どこからともなく一陣の風が吹き上げて来ました。その風が、颶風《つむじかぜ》のように颯《さっ》と四辺《あたり》の枯葉を捲き上げました。紛乱《ふんらん》として舞い上る枯葉の中に立った竜之助は、今その墓から出て来たもののようであります。
「なんだか、わたしは怖ろしうございます」
 日はかがやいているのに、お銀様はその周囲《まわり》が鉛のように暗くなることを感じました。

         二

 机竜之助はその晩、ふらふらとして小泉の家を出でました。
 お銀様は竜之助の出たことを知りませんでした。それは竜之助がお銀様の熟睡を見すまして、密《そっ》と抜け出でたからであります。
 小泉の家の裏手を忍び出でた竜之助は、腰に手柄山正繁の刀を差していました。これは神尾主膳から貰ったものであります。手には竹の杖を持っていました。これも甲府以来、外へ出る時には離さなかったものであります。面《かお》は例によって頭巾《ずきん》で包んでいました。
 その歩き方は、甲府において辻斬を試みた時の歩き方と同じであります。あるところはほとんど杖なしで飛ぶように見えました。あるところは物蔭に隠れて動かないのでありました。自然、甲府でしたことを、ここへ来ても繰返すもののように見えます。
 けれどもここは甲府と違って、人家も疎《まば》らな田舎道《いなかみち》であります。笛吹川へ注ぐ小流れに沿って竜之助は、やや下って行ったけれど誰も人には会いません。人には逢うことなくして、水車の車のめぐる音を聞きました。竜之助がその水車の壁に身を寄せた時に、一方の戸がガタガタと音をして開きました。
「それでは新作さん、行って来ますよ」
 それは若い女の声。
「ああ、気をつけておいで」
 それは若い男の声。
「ずいぶん暗いこと」
 若い女は外の闇へ足を踏み出しました。手拭を姉《あね》さん被《かぶ》りにして、粉物を入れた箕《み》を小脇にし、若い女の人は甲斐甲斐《かいがい》しく外へ出て、外から戸を締めようとしました。
 小屋の中で臼《うす》のあたりを小箒《こぼうき》で掃いていた若い男は、その手を休めてこちらを向いて、
「狸《たぬき》に見込まれないようにしろや」
と言って笑うと、
「大丈夫だよ、わたしなんぞを見込む狸はいないから」
 女もまた、小屋の中を見込んで笑いながら戸を締めました。
 女はこう言い捨ててスタスタと草履《ぞうり》の音を立てながら、小流れの堤を上の方へと歩いて行きます。
 この水車はある一箇の人の持物ではなくて、この八幡村一郷の物であります。一軒の家が一昼夜ずつの権利を持っている共有物でありました。その当番に当った家では、その機会においてなるべく多くの米を搗《つ》き、麦を挽《ひ》かねばなりませんでした。これがために、いつもこの水車小屋には徹夜の働き手がいます。
 もし若い娘がその当番の夜に働いていたならば、それと馴染《なじみ》の若い男が手伝いに来たがります。馴染でない若い男もやって来たがります。もしまた出来てしまった間柄である時には、その馴染であるとないとに拘《かかわ》らず、手を引いてこの水車小屋の一夜を、水入らずの稼《かせ》ぎ場《ば》として許すのであります。
 右の若い女が土手道をスタスタと歩いて行く時に、机竜之助は壁の下から軽く飛んで出でました。いくばくもなくその娘のあとから追いつきました。追いついたというけれど、それはほとんど風のようです。風は微風でも音がするけれど、竜之助の追いついた時までは音がしませんでした。
 でも女はその音を聞かないわけにはゆきません。
「おや?」
 箕《み》を抱えたままで振返ると、そこに真黒い人影が、いっぱいに立ちはだかっているのを見ました。
「物を尋ねたい」
「はい」
 女はワナワナと慄《ふる》えました。
 女はワナワナと慄えて、立っていられないために地面へ竦《すく》んでしまおうとした時に、竜之助は右の猿臂《えんぴ》を伸ばして、女の首筋を抱えてしまいました。
「あれ!」
と叫ぶ口を、竜之助は無雑作《むぞうさ》に押えてしまいました。女は箕を取落して、そこら一面に濛々《もうもう》と粉が散乱しました。
「お前は小泉という家を知っているか」
 こう言いながら竜之助は、いったん固く押えた女の口を緩《ゆる》めました。
「はい……」
 女は再び叫びを立てるほどの気力がありません。
「それはどこだ」
「小泉の旦那様は……」
「小泉の主人を尋ねるのではない、小泉の家にお浜という女があったはず、それをお前は知っているか」
「小泉のお浜様は……もうあのお家にはおいでがございません」
「どこへ行った」
「お嫁入りをなさいました」
「それから?」
「それからのことは存じませぬ」
「知らぬということはあるまい」
「存じませぬ」
「人の噂《うわさ》ではそれをなんと言っている」
「人の噂では……」
「気を落つけて、人の噂をしている通りを、わしに聞かしてくれ」
「人の噂では、お浜様はよくない死に方をなされたそうでございます」
「よくない死に方とは?」
「悪い奴に殺されたのだなんぞと、村では噂をしているものもありますけれど、わたしはそんなことは知りませぬ」
「悪い奴に殺されたと? どこで……」
「はい、お江戸とやらで殺されて、骨になったのを、こっそりとこの村へ届けた人があって、それでお浜様の幽霊が出るなんぞと若い衆が言っていますけれど、わたしなんぞは何も存じませんから、どうか御免なすって下さいまし」
「お前はどこの娘だ」
「わたしは……」
「お前の歳は?」
「十八でございます、助けて下さいまし」
「十八……それで名は?」
「名前なんか申し上げるようなものではございません」
「いま水車小屋にいた若い男はありゃ、お前の兄弟か、亭主か」
「あれは新作さんでございます」
「新作というのは?」
「この村の若い者」
「お前はあの男を可愛いと思うか」
「それは、あの人はゆくゆくわたしと一緒になる人……」
「うむ、わしはこの通り眼が見えないけれど、感で見ると、お前は可愛い娘らしい、お前に可愛がられる若い男は仕合せ者じゃ」
「あなた様は、わたしをどうなさるんでございます」
「小泉のお浜を殺したのは拙者《おれ》だ」
「エ、エ!」
「その供養《くよう》のために、お前を頼むのだ」
「ああ怖い」
「これから後、拙者の差している刀に血の乾いた時は、拙者の命の絶えた時じゃ」
「わたしを殺すのでございますか、わたしをなぜ殺すんでございます、いま死んでは新作さんに済みませぬ」
「それは拙者の知ったことでない、こうせねばお浜への供養が済まぬ」
「あれ!」
「斬ってしまえば雑作《ぞうさ》はないけれど、これはお浜へ供養の血」
「苦しい!」
「存分に苦しがれ」
「ああ苦しい!」

 夜中過ぎに机竜之助は帰って来ましたけれども、竜之助が帰って来た時までお銀様は、竜之助の出たことを知りませんでした。
 そっと帰って来て、行燈《あんどん》の下で頭巾《ずきん》を取ろうとした時にお銀様は眼が醒《さ》めました。醒めてこの体《てい》を見ると怪しまずにはおられません。
「どこへかおいであそばしたの」
「ついそこまで」
「お一人で?」
「一人で」
「何の御用に」
「眠れないから歩いて来た」
「そんなら、わたしをお起しなさればよいに」
「あまりよく寝ている故、起すも気の毒と思って」
「そんなことはございません」
「ああ、咽喉《のど》が乾いた、水が一杯飲みたいものだ」
「お待ちなさい、いま上げますから」
 お銀様は、水指《みずさし》を取るべく起きて寝衣《ねまき》を締め直しました。
「まだお火がありますから」
とお銀様は火鉢の灰を掻《か》き起しました。
「お銀どの」
 竜之助はうまそうに、水を一杯飲んでしまってから、
「紙があったはず、それから筆と墨と」
「何かお書きなさるの」
 お銀様は竜之助の請求を怪しみながらも、手近の硯箱《すずりばこ》と一帖の紙とを取寄せて机の上に載せながら、
「わたしが書いて上げましょう、用向きをおっしゃって下さい」
「ええと、その紙で帳面をこしらえてもらいたい、半紙を横に折って長く逆綴《ぎゃくとじ》にしてもらいたい」
「横に折って長く逆綴に? そうして何にするのでございます」
 お銀様は、竜之助に頼まれた通りに帳面をこしらえ始めました。紙撚《こより》をよってそれを綴じてしまって机の上へ置き、
「逆綴というのは、これはお葬いやなにかの時にするものでございましょう」
「死んだ人へ供養のためにするのじゃ」
「供養のために?」
 お銀様は、いよいよ竜之助の挙動と言語とを怪しまずにはおられませんでした。
「今日の日は何日《いつ》であったろう」
「二月の十四日」
「それでは、そこへ初筆《しょふで》に二月十四日の夜と書いて……」
「二月十四日の夜、と書きました」
「その次へ、甲州八幡村にてと……」
「はい、甲州八幡村にて」
「その次へ、少し頭を下げて、名の知れぬ女と書いて」
「名の知れぬ女」
「十八歳と小さく」
 お銀様は、竜之助に言われる通りにこれだけのことを書きました。
「これだけでよろしいのでございますか」
「まだ……左の乳の下と」
「左の乳の下、それから?」
「それでよろしい」
「これがどうして供養になるのでございます」
 竜之助はそれには答えることがなく、
「今夜、拙者が外出したことは誰にも語らぬように。この後とてもその通り」
「あなたを一人歩きさせたのは、わたしの罪でございますもの」
「寝よう」
 その時に何の拍子か、行燈《あんどん》の火がフッと消えました。
 八幡村を震撼《しんかん》させるような恐怖が起ったのは、その翌日の夕方のことでありました。
 昨夜、水車小屋から出て行方知れずになったという村の娘が一人、水車場より程遠からぬ流れの叢《くさむら》の蔭に、見るも無惨《むざん》に殺されて漂っていたのが発見されて、全村の人は震駭《しんがい》しました。
 慄え上って噂をするのを聞いていると、それは大方、恋の恨みだろうということです。
 その娘は村でも指折りの愛嬌者に数えられて、新作と約束が出来るまでに、思いをかけた若い者も少なくはなかったというこ
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